「さあ、新郎新婦の登場です! 皆様、盛大な拍手をお願い致します」
スポットライトが照らす、ホール入り口。洋子は真っ白のウェディングドレスをまとい、
背の高い新郎と手を組んで現れた。百人もの皆の視線がそそがり、皆の拍手が鳴る。
 洋子は結婚行進曲の中を一歩一歩前に歩いていく。カメラのフラッシュが幾度もたから
れる。その中をいく洋子、彼女は幸福を今掴もうとする、その高揚感の絶頂。自信に満ち
た表情。 
 おめでとう、洋子。あなたもついにこの日を迎えたのね。本当におめでとう。あなたが
こんな日を迎える時が来るなんて。私、正直想像が出来なかった。
 あなたは憶えていますか? あの、入社式の時。あなたは緊張で棒のようになって歩く
とき右手と右足、左手と左足を一緒に出してたよね。まるでよくある漫画みたい、私はち
ょっと笑ってしまった。
 あなたはいつもヘマばっかりでした。得意先からの電話も保留にしたまま、すっかり忘
れちゃってお茶飲んじゃったりして。課長にどやされてましたね。仕事も遅くていつも残
業ばっか、私もよく付き合わされてたよね。それも今は遠い昔のこと。一つ一つの思い出、
今はフラッシュの光の影。
 
「こずえ、今までありがとう。わたし、幸せになるね」
キャンドルサービスで私のテーブルまで回ってきた洋子、私を見据えて暖かな笑顔。とて
も幸せそう。私も笑みを返す。
 
「あなたはきっと幸せになる。だってあれほど泣きながらも仕事頑張ったんだから。あん
だけヘマの後始末に苦労したこの私が保証するわよ」
ちょっと憎まれ口。つい、いつも会社で後輩の男性社員を叱る物言いになる。でも洋子と
は長い付き合い。彼女はその口調の裏側にある精一杯の思いに気付いてくれる。洋子の目
頭、涙が滲んだ。
 私と洋子は同期の入社。入社以来の付き合いだから、もう十三年近い関係。一緒に頑張
ってきた。あの頃はちょうど男女雇用機会均等法が施行され、私のような地方大学卒の女
性にも大きく一般職の道が開かれ始めていた。私は就職第一志望であったこの会社に入る
ことができた。そして誰よりも負けん気が強かったと思う。女だから仕事が出来ないなん
て言われたくない。女だから結婚までの腰掛けに過ぎないなんて、分からず屋の鼻をへし
折ってやりたい。私は出世した。
 
 二次会。イタリアンレストランを貸し切りにして新郎・洋子の身内、友人、同僚達が騒
いでいた。同僚の女の子達は皆若い。それもそうだ。うちの会社女性最年長が、内田 洋
子と宮村 こずえ、つまり洋子と私の二人なのだから。
 それにしても若い子達はワインなどよく飲む。まったく、味なんて分かっているのか。
私が入社した頃はみんな、男も女もビールか焼酎と相場が決まっていたものだが。テレビ、
雑誌の影響だろう、時代は変わった。
 
「宮村主任、俺も結婚したいっすよ。いやあ、内田さんうらやましいっす。いったい、ど
うやったら幸せになれるんですかねぇ?」
私がカウンターでビールを飲んでいると部下の島村クンが寄ってきた。寄ってきてしかも
酔ってきている。……洒落にもなりゃしない。島村クンは酒に弱い。
 
「会社のデータ消したこともあるボンクラが何を言ってんの。あんたねぇ、仕事も出来な
い、でもって弱虫、おまけに酒に弱いじゃどうしようもないよ。ちょっとは男でも磨いて、
ついでに仕事ももう少し出来るようになれ」
私は島村クンのおでこにデコピンをくらわしてやった。
 
 島村クンはおでこ押さえつつどっか行った。カウンター、私の周りは誰もいない。洋子
はレストラン中央、大テーブルに新郎と座っている。周りには様々な人々。祝福を述べて
いく。それに対して私は一人、カウンター。私も私なりに祝福は述べた。しかし、私は大
勢で騒ぐのが好きではない。うるさいのがたまらない。やはり、一人、静かに過ごすのが
一番だ。誰にも邪魔されることなどない。そして私のそばに来る者もいない。
 
 島村クンぐらいなものだ、陰で鬼女史と呼ばれる私にいつも下らない馬鹿話をしてくる
のは。おまけに若い子達は私を『会社の裏ボス』、『いき遅れバブル地雷』などと呼んで
いる。お偉方は、『涙すらも無い女』という。はいはい、ごもっとも。こちとら、いき遅
れの裏ボスでござい。可愛げの無い女、泣かない女でござい。涙なんて、ここ二十何年も
流したことがないよ。絶対に、と誓っているから。弱みなんか見せはしない。
 私は怠慢からのミスには容赦しない。女だろうが男だろうが。私の雷で泣いても許さな
い。会社から給料を貰っている以上、当たり前のことを当たり前にこなさないのが悪い。
 それに比べて洋子。彼女はいつも優しくおっとりとしていて、いつも若手のいいお姉さ
ん役。会社内での相談所的存在。会社内の彼女自身はいつまでたっても平OLに過ぎなか
ったが誰からも頼りにされていた。仕事の質は正直そこそこだったけれど、真面目でそし
て思いやりがあった。いつも彼女の周りには明るい笑顔があった。そして今この場所でも。
 
「向こうから手紙書くね」
二次会も幕を引き、洋子は満面の笑顔で言うと新郎とタクシーに乗っていった。レストラ
ン出口。皆が見送る。洋子は明日から新婚旅行。
 それを潮にそれぞれが帰路につく。何人かずつの楽しそうな集団。私は一人。まあ、私
と一緒に帰ろうなんて物好きもいないか。随分と酒も入った。少しぼんやりとした目で夜
空を見上げる。今は九月、夜空には一年で一番美しい満月が浮かんでいた。さて、私もタ
クシーにでも乗るとしようか。
 私は通りがかったタクシーを呼び止める。と、ふとそばに島村クンが寄ってきた。
 
「主任、僕も主任と家が同じ方向です。乗せてってもらってもいいっすか?」
島村クン、なんだか少し照れてるよう。あらら、しかもますます酔ってるし。
「ほら、僕貧乏なんで家に帰ると腹すかした兄弟が待ってるんスよ。両親は病気で、弟は
学校に行きつつ新聞配達、妹は牛乳配って。なんで、乗せってってくださいよう」
笑って言う。いっておくが、島村クンは一人っ子である。ご両親も健在だ。
「……アホか」溜息と共に、私は彼をタクシーに連れ添った。
 
 タクシーの中。私はずっと窓ガラス、外の光景を眺める。夜の街並み。
「内田さん、幸せそうだったッスね」
なんだか上手くろれつが回っていない島村クン。外を眺める私を見る。
「いやぁ、やっぱり女の人の花嫁衣装って素敵ですね」
私は無言。その後も彼はとりとめのない話をする。会社の次期事業計画の話、洋子のこと。
実家のこと。将来の夢。
 彼は思いつくままであろう様子で喋った。私は適当に生返事をする。正直、少し酒が入
っているのと眠気が来ていて辛かったのだ。それに、彼の話がなんとはなくうざったかっ
た。この男はこんな三十路の独身、会社内でも煙たがられている中間管理職の前で、何で
こんな下らない話をするのか、眠い私はなんだか苛々してきた。ついつい人差し指、爪で
ドアを小刻みにいじってしまう。
 
 そんな中。ふいに。
「主任。内田さんのような花嫁姿、憧れませんか?」
島村クン、突如酔いの感じぬ低い声。私は振り返った。
 
 島村クンの目はじっと私を見据える。真剣な目。彼がこんな目をするなんて。私の指先
は止まった。
「主任、結婚する気はないんですか」
島村クン、押し黙る。私は乾いた笑いをするとそれを否定した。
 
 島村クン、あんたね、分かってますか? 私、もう三十五なのよ。もうおばさんみたい
なもの。目元には小じわも出てきているし、肌の艶も無くなってきた。化粧もほんの申し
訳程度。口紅はホント地味な色。最後に男と関係持ったのは入社して二年目、妻子持ちの
係長と。入社二年目、二年目よ。もう十年以上も前のこと。 
 おまけに泣く子も黙る、裏ボスよ。バブルの申し子の生き残り、埋もれた地雷。最後の
核弾頭。早期退職制実施の影響で、おばさんOL達が全滅して女性社員最年長。
 仕事のために人生を尽し、仕事が私の恋人。そんなハイミスの私が?
「あんまし馬鹿にしないでちょうだい。島村クン」私は言い放つ。
 
「僕はあなたの事が好きです」
 
 耳を疑った。私は生唾を飲み込む。島村クンを見つめる。
「島村クン、冗談は……」
私は戸惑い動転しつつ何とか言う。これはきっと悪い冗談だ。
「主任。いえ、宮村さん。僕はあなたの事が好きです。あなたの事が大好きです。好きで
好きでどうしようもない。ずっと好きでした。……あなたを愛してます」
島村クン、真顔。じっと私の顔を、目を見る。その顔は赤い。でもきっとそれはお酒のせ
いだけではない。
 
 タクシー運転手が好奇心を顔に浮かべてフロントミラー越しにこちらを見る。けれど二
人は一瞥だにしない。車は夜の通り、月の下を流れていく。車内、月の光が差し込む。
 
「馬鹿言わないでよ! こんな年増からかって何が楽しいの!? あなた幾つよ? 私は
今年で三十六よ。あなたがまだ中学校で保健で子供の作り方習ってる頃、私はこの会社に
勤めていてとっくに男を知ってたのよ」
でも彼はその目を崩さない。
「僕はあなたの人生を知りません。だけど、会社でのあなたのことを見てきました。
 最初、入社してすぐ研修であなたに付いたときなんて恐そうな人だと思いました。あな
たはいつもしかめっつらですぐに怒鳴るし、容赦がない。おまけに罵倒するときはとこと
んだし」
 私は研修時代の彼を思い起こした。なんて愚図でノロマな奴。反応が一々鈍い。典型的
な甘やかされた男。何度どやしつけたことか。でも彼は予想外にしぶとかった。どれほど
怒鳴られようと、それでも歯を食いしばって私の指示を守ってきた。
 
「正直、ぶっとばしてやりたいって思ったこともありますよ。まあ、喧嘩なんかしたこと
もない僕に出来はしないですけど」島村クンは微笑んだ。そして。
 
「覚えていますか? あの、僕がチームのデータを消してしまって大目玉をくらった時。
僕は深夜の会社で一人消えたデータの打ち込みに追われてました。余りにも多すぎる処理
に僕は悪態をついて、何度も投げだそうとした。僕は、自分に負けそうになった」
彼の言葉は弱々しい呟き。一転、強い口調になる。
 
「でも、そんな時、あなたは来てくれましたよね。どうしても外せない接待の後で、くた
くたの筈なのに。あなたは僕を励まして、そして一緒になって手伝ってくれた。
 やっと終わった時はもう辺りが明るくなってましたよね。あなたはコーヒーを差し出し
てくれてた。あなたの煎れたコーヒーの、なんてほろ苦く、渋かったことか。お世辞にも
美味いなんて言えなかった。でも、とても温かかったなぁ。
 ……宮村さん、本当のことを聞いてくれますか。僕は、今まであなたがいたからこそ、
苦しいことも頑張れてきたんです」
車内、月の光が差し込む。二人を照らす。私はあの一夜を思った。あの時、苦しくともや
り通そうとする島村クンが、なんだかとても可愛くて愛おしく感じられた。
 
「それからもあなたの下で仕事をしてきました。そんな僕だから分かるんです。あなたは
仕事に生きようと考えている。恋人をつくりもせず、結婚もせず。ただ仕事のために頑張
ってきたと思います。それであなたは満足しているといつか言ってましたよね。
 あなたは人が嫌がる仕事も率先してこなしてきました。サービス残業も嫌な顔一つせず。
誰よりも努力されてきました。そして僕はいつもその背中を見てきたんです、いつも。
 あなたは誰よりも早く会社に来て、誰よりも遅く家に帰る。誰よりも休憩を取らない。
誰よりも真剣。誰かがミスをしたら、どんなに遅くなっても一緒になって残業してる。
 そんなあなたの姿が僕の中で段々と大きくなっていったんです。最初はあなたの仕事っ
ぷりへの驚き、尊敬。そして憧れ。
 僕はあなたのことをとても尊敬してます。すごく憧れています。あなたは強くて美しい。
僕はあなたが愛おしい。……僕は、あなたの休む木陰、ポプラの木になりたい」
 
 島村クンの瞳は深くて、強い。だけど、けれども私は、私は。
 
「島村クン、私はそんな偉い人間じゃない。そんな偉い人間じゃないのよ、島村クン。私
は一人で生きてきた。今までも。そしてたぶんこれからも。そんな私にはただ、ただ……
私には仕事しかなかったから」
私の声はかすれる。とても彼と向かい合うことなど出来ない。普段とまったく逆。
 
 島村クンは言った。
「いいえ、あなたは素晴らしい人です。……僕は、あなたが本当は誰よりも心優しい人だ
ってこと、知ってますよ」最後の言葉に、私は思わず彼を見つめた。島村クンの瞳は深く
て、暖かい。だけど、けれども私は、私は。
「僕には、あなたの苦しみも痛みもよく分かります」
 
 瞬間、私は絶叫していた。
「あんたに、あんたに私の何が分かるのよ! 酒に酔ったときしか自分のことを俺と言え
ないあんたに、酒の力を借りて酔ったときに告白する最低なあんたに! あんたみたいな
軟弱な弱虫に私の何が分かるって言うの!」
小耳で様子を窺っていた運転手、驚き振り返る。島村クン、突然の私に呆然とする。
 
「お願いだから、これ以上私のことを惨めにしないで。お願いだから、島村クン!」
私は運転手に急停車かけさせると、鞄も座席そのまま飛び出した。背中に島村クンの声が
聞こえてくる。私を呼び止める声。だけど私はそれに応えなかった。……空には丸い月。
 
 
 深夜。月の光の下、河原土手の上。私は一人、どこいくとも知れず歩いていた。夜空に
は大きな満月。九月、夏の終わり、秋の初めの風が吹く。
 私の耳の奥、胸の底にはいまだ先程の島村クンの言葉が響いている。
「あなたのことを愛しています、か」
私は呟く。もうどれほど長く耳にしなかった言葉。けれどそれは私に安らぎをもたらすこ
となく、ただ掻きむしられるような悲しみを私に残した。どうしてだろう。昔、この言葉
にどれほどか憧れていた自分もいたはずなのに。私は変わってしまったのか。
 言葉にならない切なさがよぎる。なぜだろう、こんな私を彼は不器用ながらも好きだっ
ていってくれたのに。
 今まで島村クンを男として見たことはない。いいとこ、出来の悪い弟。随分と間抜けな
弟。だけど真摯な弟。心から信頼できる弟。けれど私は彼を拒絶した。その愛の言葉まで。
 目頭が熱い。肩が震える。でも、私は踏みこたえる。誓って、踏みこたえてみせる。
 
 私は何も考えたくなかった。ただ土手の上をふらつく。行くべき所など無い。お金もな
い。財布はタクシーの中、鞄に入ったまま。仕方がない。始発まで時間をつぶそう。
 そして、その夜。月の光の下。私はその子に出会った。
 
 物音がした。突然、土手の斜面、すすきの茂みが揺れる。こんな時間、こんな場所。私
は用心した。しかし、そこから出てきたのは、一人の男の子。
 
「あ、ごめんなさい。驚かせちゃった」
男の子と私は目が合う。彼は気恥ずかしそうに照れた。その子、年は十歳ぐらいか。真っ
白い短衣を身につけ、腰を縄でとめている。変な格好。
 
「どうしたの? こんな時間に。パパやママとはぐれちゃったの?」
私は近寄ると尋ねた。まったくこんな深夜に、こんな小さな男の子だけで。親は何を考え
ているのか。顔が見てみたいものだ。っと、こんな文句がおばさんくさいんですよって島
村クンが前言ってたな。まったく。
 
「お父さんもお母さんも、今はこの世界にいないんだ。ボクは一人」
つぶらであどけない目。
 
 しまった、悪いことを尋ねてしまった。この少年のお父さんもお母さんももうお亡くな
りになってるんだね。知らなかったとはいえ、ごめん。
 私は少年の頭を撫でる。さらさらの髪。きれいな絹の糸のよう。よく見るとこの子、
ちょっと信じられないほど綺麗。月の光を受けて白く輝く。
 
「ねえ、あなたはお名前は? こんなところで何してたの」
どちらにせよ、こんな深夜にこの子一人にしておくという事は出来ない。早く親代わりの
保護者に連れて行かねばならない。私は撫でつつ、ことさら優しい声で聞いた。
 
「ボクはツクヨミ。こんやは『月追い』をしてたんだ」
言うと少年は柔らかく笑った。透き通るような笑顔。
「ツクヨミ…… なんか変わったお名前ね。月追い? 何それ」
私は聞き直す。それに対して少年はすごくがっかりした様子。
「おばさんもボクのことを知らないんだ。なんかおちこんじゃった」
私は意味が分からない。あなたと私は初対面でしょ。知るわけ無いし。この子、芸能人な
のかしら。この変な格好、もしかして何かの撮影中? なわけないか。
 しっかし、いきなりおばさんなんて言わないでちょうだい。これでもまだ三十五。憮然
とする私。でも、なんか今私の言った事っておかしいような。なんでこんな事気にするの
かしら。
 
「ま、いっか。ほとんどみんな忘れちゃってるし」
少年は一人で落ち込んで、一人で明るくなっていた。変な子。
「ボクのことも知らないんじゃ、月追いのことも知らないよね。じゃ、教えてあげる」
 
 ちょっと待って、私はあなたを誰かお知り合いの家まで送らなきゃいけないのよ。そん
な事を聞いてもしようがないじゃない。尋ねる。けれど、少年が言うに帰る家など無いそ
うだ。ますます分からなくなる私。そんな私に構わず彼は月追いの話を始めた。聞く、私。
 
「月追いっていうのは遊びみたなものなの。夕方、月が東の空にでるでしょ。それをつぎ
の日のあさ、月が西の空にしずむまでずっとおいかけるの。それが月追い。ボクはいま、
そのとちゅうなんだ」
平然と言う少年。私は唖然とする。何なんだ、それは。とんでもない遊び、いや遊びとい
えるのか、それは?
「でね、それができたらなにか一つ、ねがいごとがかなうんだよ」少年はにっこり笑った。
 
 この子、ちょっと変わってる。格好もそうだけど、思いっきり浮世離れしてる。変なの
に関わってしまったかも知れない。今日はとんでもない日だ。結婚式の後、私に理解不能
なことをのたまう酔狂な奴もいたし、そして小銭しか持ってなくて電車もない。おまけに
とどめがこの少年。私は一人でいたいのに。一人静かに。
 
「この遊びはね、みやこのきぞくたちの遊びなの。むかし、みやこが西にあったころ。
 想う人のことや、びょうきでくるしむ家族のためにねがいをこめて月追いをしたんだよ」
私は少年の顔を覗き込む。変な子だけど、妙なことに詳しいな。どうしてあなたはそんな
こと知ってるの? 少年、続ける。
 
「でもね、これってなかなかたいへんなんだよ。やっぱりとちゅうには家もあるし、川も
ながれてるしね。それに今は昔より家もおおいいし。
 こんや、ボクはねがいをこめて歩いてそう思ったの。みんながんばってたんだなって。
上からながめてたらあんまり分かんなかったけど、じっさいやってみるとつらいや。
 やっぱり空を飛べなくなるときついね」
 
 空を飛ぶ? 何を言っているのあなたは。尋ねようとする私。でも少年は続ける。その
言葉はまるで竪琴のよう。心地良い響き。私は引き込まれる。
 
「ほんっと人間ってえらいなって思うな。そうじゃない? こずえさん」
私は息を呑む。少年を見つめる。……なんでこの子は私の名前を知ってるの?
 
「ボクはなんでも知ってるよ。こずえさん。おばさんはこの町からずっととおい山のなか、
いなかまちで生まれたよね。ホント山ぶかいまち。五人きょうだいのいちばんお姉さん。
 こずえさんはお父さんがはやくに亡くなって、お母さんはずっとはたらきづめ。それで
小さいときから家のことをぜんぶやって来たよね。エライと思うな」
少年は単純に賛嘆の表情。月の光照らす少年の影が、どこまでも私に向かって伸びてくる。
この子は、いったい何なのだ。
「こずえさんは学校でもせいせきがとびぬけてたよね。だれもかなわなかった。あんなに
家のことで家事をこなしているのにさらに夜はテレビも見ずに勉強してたもんね」
 
「あなたはいったい何者なの?」
私はようやく口を開く。唇が震える。歯が鳴る。私は何か得体の知れないものを前にして
いるのだ。それがこの、白皙の少年。
 
「ボクはツクヨミ、ツクヨミノミコト。イザナギの息子にして、月の神なの」
少年はちょっと照れくさそう。はにかんで言う。頬が仄かに赤くなる。
 
 月の、月の神? 私は少年をじっくり見ると、はるか夜空、天高く浮かぶ月を見やる。
そこにはまん丸い月があった。白い月。光は仄かにそそぎ、二人を照らす。
 
「上からいろいろこの星のことをみてきたんだ。だからこずえさんのこともよく知ってる。
部屋にキティーちゃんのコレクションがあることだってね」
少年は悪戯っぽく笑う。こんどは、私が顔を赤く染める番になってしまった。
 
 
 私の投げる石は気持ちよく川の水面を切っていく。一回、二回、三回、四回、五回……
 
「どう? 今度は五回いったよ」
私は得意気に少年の方を向く。少年は口を大きく開けてはしゃぐ。私の腕を褒める。
「すごい、すごいよ、こずえさん。とてもかなわないや」
 
 少年はその小さな手で河原から小石を拾う。りきませて精一杯投げるもそのままドボン。
「ハイ、ツクヨミくん、記録は……0回! 拍手ゥ!」
私は大声で囃した。少年は頬を膨らませてふてる。私に一言、二言文句を言うけど私は笑
ってあやしてあげる。少年はそれでにこにこ笑っている。なんて単純で、なんて素直。
 こんな他愛のないことでも目を輝かせて笑ったり、走ったりと忙しい。この高揚感、ど
こか切なくて懐かしい。この気持ち、私は遠い昔にあの故郷の町に置き去りにしてきた。
 
 あれから二人で河原におりた。いろいろとりとめのない話をした。この子は月の神様。
あの空に浮かぶお月様の神様。ずっとずっと一人宇宙からこの星を眺めてきたらしい。
 
 遊び疲れた二人。すすきの土手の坂に腰下ろす。虫の鳴き声が響く。
「ねえ、ツクヨミくん。随分と遊んだけど、あなた、月追いの途中なんでしょ? こんな
事してていいのかしら?」
けれど少年は首を横に振る。
「もう、いいんだ。もう。ボクはだいじょうぶ。月追いはもうおしまい」
静かに呟く。少し寂しげ。あれれ、もういいのかしら? まあ、私としてはこの子と遊べ
て本当に楽しかったからいいんだけど。でも邪魔してしまったかな。
 しかし、たまにはこういうのも悪くないかも知れない。一人じゃなく、誰かと二人で。
私は、一人がいちばん心安らぐって思ってきたけれど。私にも違う生き方があったのかも
知れない。でも結局、私は私。張りのない手のひらを見て、私は自己嫌悪に陥る。
 私はただのおばさん。夢を見たりなんかしない。誰かに何かを与えてもらおうなんて望
みはしない。もう、私は疲れた。私は一人でいたいの。誰も私を傷つけはしないから。
 私は一人でも生きていける筈。だけど、だけど。
 
 夢を見ちゃ駄目だ、悲しくなるばかり。私は馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。だから
せめて会社で、仕事で、誰かの役に立たなきゃ。誰かが私を頼りにしてくれる限り。それ
が私の生きる意味。私の価値。そんな私。……島村クン、あんたは人を見る目がないよ。
 
 私は少年の少し寂しげな横顔を見るに胸が締め付けられそうになる。とても哀れに見え
たから。私は元気づけようと声をかける。
「ねえ、ツクヨミくんはどんなことしてきたの?」
私は優しく問いかける。
 
「ボクはもうずっと、ずっと昔、大昔。父さんに言われてからずっと月の神をしてきたの。
暗い宇宙の中で、青い地球の横で。一人」どこか少年は悲しげ。
 
「ボクがいたからこの星の海に波は生まれた。よせてはかえす波、命の揺りかご。
 ボクがいたから、夜、まっくらな大地の上に光は生まれた。いまだ、人が火を手にする
まえ。ほのかでかすかな光、それはボクのせいいっぱい。『天照』の輝きをそっとこの星
に送るぐらいしかできなかったけど、それでもボクのせいいっぱい。この星のひとたちに
はホントにゴメン。ボクの力は弱くかぼそかった。
 でも、そんなわずかな力でも。送る光、それはボクの、贈る光」
 
 月の光が優しく辺りを包む。秋の風がススキを揺らしていく。虫の鳴き声、音色が響い
ていく。私と少年、二人っきりの世界。
 
「ボクの毎夜のうつりかわりをながめていた人間たち。そして、さいしょのこよみが生ま
れたの。かれらはそれをもとにして、作物の種うえる日をきめたんだ。
 ボクをただながめているだけの人もいたよ。春の、夏の、秋の、冬の、虚空にうかぶボ
クをながめるだけの人。でも、その人はきれいだねって言ってくれたっけ。ボクはホント
にうれしかったなぁ。
 いろんなことがあった。うれしいことも悲しいことも。四十六億年の月日が、ボクの中
ですぎさっていったの。みんななつかしい思い出。
 でも、そんな想いも、想い出も。もう残りあとわずかのこと」
 
 私にはその最後の意味が分からない。残りあとわずか、とは。
「もうこの時代、ボクはひつようとされてないの。人間たちは自分たちでボクなんかより
もよっぽど明るい光をうみだし、ボクなんかよりよっぽど役にたつこよみを作り、そして。
 いま、この時代、昔のあの日々のようにボクを愛でてくれる人間はもう、いないんだ。
 天照兄さんみたいにボクは強くもなくて力もない。兄さんみたいに強く明るい光も産み
だせはしない。やっぱり、この星の人も兄さんみたいに強い方がいいに決まってるよね」
ツクヨミくんの口調は淡々としている。
 
「父さんはボクに言った。お前はこれから先、未来永劫あの星のいきものたちを照らし、
ささえ、見守らなくてはならない。見守り愛せよ。それがお前のすべて。そしてそれが終
わるのはおまえがその役割を終えたとき、その時こそがって。
 だからボクはみんなに必要とされているからこそ存在があったの。そしてもうボクの意
味はないんだ。だからボクはもう消えてしまう。月は空に残っても、ボクの魂は消える。
 そして今日、この日。……今日がボクの四十六億年、さいごの日」
 
「でもボクは寂しくなんかないよ。ずっとボクは虚空の上、ずっとずっと一人だった。
一人にはなれてるよ。だから、きっと一人ぼっちでも悲しくもなく消えていけられる」
少年は虚空を見上げ微笑む。その横顔は月の光を受けて白く、輝く。絹のような髪の毛が
揺れる。純真な、つぶらな瞳。
 だけど、私は。何かを感じる。胸の奥、何かが腑に落ちない。何かが胸にしこりとなる。
何かが、私に訴えかける。
 
「きっとボクはさいしょからさいごまでひとりぼっちなんだろね。でも大丈夫だよ」
 ……そだ。
「一人ぼっちで生きて、一人ぼっちで消えていく。でもそれも本望なの」
 ……うそだ。
「だから今日はさいごの日。一人で笑って、一人で消えていくんだ」
 瞬間、私の中。何かが臨界点を越えた。
 
 ……嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ! ツクヨミくん、あなたは嘘を言ってる!
 
 私は少年を乱暴に抱きしめた。あらんかぎりの力を込めて。少年の「こずえさん、痛い
です」も気にもせず。私は絶叫した。
「お願いよ、ツクヨミくん。お願いだから、そんな思ってもいないことを言わないで!
 ……お願いだから、お願いだから、そんな寂しいことは言わないで。お願いするから」
少年は唖然とした表情で私を見返す。
 私の肩が震える。激しい怒り、憤りが胸に渦巻く。そして、哀しい。
 
 強がるのはやめなよ、ツクヨミくん。あなたがどんな子なのか、私には分かってるよ。
 きっと、この子は生まれたばかりの時からずっとあの真っ暗な虚空で、一人ぼっち。そ
ばには青い華やかな星、地球。でもあなたの地表はただの石ころと砂ばかりの虚無の世界。
この子はたぶん、いつも泣いてばかり。きっといつも。一人は寂しい、辛いよって。
 誰もこの子のことを叱りはしない。怒りもしない。傷つけもしない。だけど、そこに誰
かの賑やかな声はない。誰かの他愛もないおしゃべりや団欒もない。誰かの優しさもそこ
にはない。誰かの肌の温もりもない。そして、この子の泣き声は誰にも届かない。虚空す
ぐそばには華やかな星。けれどあなたの周りには虚無の世界。一人ぼっちの世界。
 
「みんな、あなたに育ててもらって。みんなあなたのことなんて忘れてしまった。みんな、
辛いことや嫌なことをあなたに押し付け楽をして、その陰であなた一人が涙をこぼしてき
た。それでツクヨミくんはいいの?」
 
 私の腕の中でツクヨミくんは呟く。
「忘れられてもいいんだよ。だって、君たちは立派になったじゃないか。それで僕は満足」
 
 私の胸の奥に、ある情景が思い浮かんだ。山深い町。そこには父を亡くした五人の子供
らがいた。泣き叫ぶ弟、妹達の中で必死に兄弟達を慰めているのは、ツクヨミくん。
 
 父さんを亡くして、お母さんは日々の糧を得るのに必死になって働いていた。残された
兄弟達は父さんの優しさが忘れられなくて、ただ縮こまって泣くばかり。ツクヨミくん、
あなたはそんな弟達の頭をそって撫でる。泣かないで、泣いちゃ駄目だと言う、そんなあ
なたが泣きながら。そして、ツクヨミくんのそれからは。
 
 お腹が減ったと言っては騒ぐ弟たち。綺麗な服が欲しいと言ってはねだる妹たち。でも、
買って上げたくてもそんなお金は何処にも無くて。あなたは、一人、泣きながらご飯を炊
いて。弟らが散らかした部屋の掃除をして。汚した服の洗濯をして。小さな手で。
 泣いて笑って怒り悲しみ、そんな中で人並みに、幸せを兄弟達に掴ませてあげようとあ
なたは苦心した。あなた自身も父さんの死で悲しいのに、苦しいのに、それでもあなたは。
 それでもあなたは弟たちの前で泣かなかった。悲しませたくないから。悲しみも辛さも
自分一人で抱え込む、その決意だったから。絶対に泣かないと誓った。
 一人、ツクヨミくんはじっと夜空見上げる。大きな月。なんだかお月様が微笑んだよう
にあなたは感じた。
 
「何が立派よ! 私なんていつもあなたに見守られてきたのに感謝もしなかった、気付き
すらもしなかった。それでもあなたはいつも照らしてくれた。
 ツクヨミくん、どうして逃げ出さなかったの? どうして投げ出さなかったの? 一人
で頑張ったあなたが、どうして一人で苦しまなければならなかったの。報われないのに、
感謝もされないのに、どうしてあなた一人きりでぼろぼろにならなきゃいけなかったのよ!」
 
「なぜ逃げ出さなかったんだろうね、それは分かりっこないよ。でも、」
  
「……こずえさんになら、それが分かるんじゃないかな」
その一言は、私の二十何年もの誓いを破らせた。私は泣いた。子供のように泣いた。
 
 苦しいよ、ツクヨミくん。悲しいよ、ツクヨミくん。辛いよ、ツクヨミくん。張り裂け
そうだよ、ツクヨミくん。でも。暖かいよ、甘苦しいよ。とろけるよ。心が、心が。
 
「泣かないでよ、こずえさん。ボクはそんな偉くない。そんな偉くはないよ。ボクは一人
で生きてきた。今までも。そして最後まで。そんなボクにはただ、ただ。ボクには見守る
ことしかできなかったから」
 
 馬鹿、それは違うよ。あなたはどんなに辛くても悲しくても、それでもこの星を、そし
て人間達を愛してくれたんじゃない? 自分が本当は無力な事は分かっているのにそれで
も微かな光を贈り続けた。本当は自分が寂しいのに、それでも誰かのために涙流しながら、
血を吐きながら。誰かのために。自分以外の誰かのために。例えどれほど憎まれようと、
煙たがられようと、馬鹿にされようとも。それでも誰かのために。誰かがあなたよりも楽
をしようとも、要領よく幸運を掴もうとも。
 それでもあなたは、自ら燃えさかる火の中に飛び込んで、心の、魂の、強さと優しさと
思いやりの尊さを、劫火に焼き尽くされながらも信じ続けた。与え続け、奪われ続けなが
らも信じ続けた。
 
「あなたは自分が弱いことを分かっていた」
 
 そして私ははっきりと言った。
「けれど、それでも誰かに優しさをそそぎ続けたあなたは、……きっと誰よりも強い」
少年は、泣いた。
 
 ……ツクヨミくん、聞いて下さい。でも本当はあなたは一人じゃなかったのよ。どれほ
ど微かなものであろうとも。どれほど無力でも。それでもあなたの誠実さを、そしてあな
たを、不器用なまでに愛してくれた人がいたのよ。
 私には分かる。私には分かる。私だから分かるのよ、ツクヨミくん。
 
 私の上に優しい光が満ちる。私の上に降り注がれる。私は優しい光を全身に浴びる。
 私の胸、心の奥底に様々な想いが去来する。それは三十五年分の優しさ。
 
 
 島村クン、島村クン、島村クン、島村クン、この声が聞こえていますか?
 ありがとう。ありがとう。本当にありがとう。こんな私を好きだと言ってくれてありが
とう。愛してると言ってくれてありがとう。……きっと私は愛されるのが恐かったのね。
 本当にありがとう。その言葉だけでも私は生きていけます。
 たとえ、どれほど悲しくても。どれほど辛くても。どれほど苦しくても。
 
 私の人生、最後の日が来ようとも。あなたの言葉だけで、きっと私は笑顔で死ねます。
 
 
 
 
 天上の月はその光を失いて西の地平にかかり、東の空はうっすらと明るみ始めていた。
 土手の上。私と少年。
 
「ありがとう。こずえさんのおかげでボクはとてもよい一生をおくれました。もはや、ボ
クの未来は変えようがないけど、四十六億年さいごの日は四十六億年最良の日だった」
少年は名残惜しそうにも、だが歩き出す。私は精一杯の笑顔で見送る。涙でくしゃくしゃ
の顔で。
 
 ふと、少年は振り返る。
「ボクの月追いは、ねがいがかなったよ」笑み。
「ボクのねがいごとは。だれか、人とふれ合い、優しさを受けてみたい、というもの」
そういうと少年はにっこり笑顔を浮かべた。
「どうか、あなたにも月追いの幸運がありますように」
私はいぶかしむ。私は月追いしてないのだから。
 
 少年は悪戯っぽく言った。
「だってボクは月だよ。……ということで。ありがとう、こずえさん。四十六億年分の感
謝をこめて。もう永遠に会うことはないだろうけど。でも、きっとボクは、」
言いかけた少年。ふっと消えてしまった。……夜明けだ。
 
「さよなら……」
 四十六億年にはほど遠いけど、三十五年分の感謝を込めて私はどこか見えなくなった、
いや、消えてしまった少年に向かって呟いた。
 
 と、その時。
「主任、主任!」
私の背中、私を呼びかける遠い声。だけど、聞き覚えのある懐かしい声。振り返らなくて
も誰だか分かるよ。ね、島村クン。あの不器用でグズな島村クン。そして誰よりも真摯な
島村クン。……私を愛してくれる島村クン。
 
 走り寄る島村クン。息せき切って。あんまし体丈夫な方じゃないのに。まったくお馬鹿
なんだから。
「主任、心配してずっと一晩中探しましたよ。いったい何してらしたんですか?」
苦しそうな彼。目が真っ赤。充血している。膝ががくがく笑ってる。私は、なんだか微笑
ましい。
 
「馬鹿ね、……月見と洒落込んでたのよ」
憎まれ口。でも私の唇は綻ぶ。
 
「こずえ、こずえー!」
と、また私を呼ぶ声。この声は。私のことをこずえって呼ぶのは一人しかいない。
 ……洋子だ。
 今日は新婚旅行に行く日でしょ!? 私は島村クンをおしのけて土手の先、彼方を見る。
そこには駆ける洋子。そして、そして。そこには、いろんな人がいた。
 
 洋子、洋子の旦那、課長、部長、なんでか社長まで。それにうちのOL達、男性社員達。
おいおい、みんな泣いてるよ。ちょっと不気味。みんなが私の姿に安堵している。
 
 課長、そんなに興奮すると内緒にしてる痔に響きますよ。部長、愛人の家から来ました
ね。服が昨日と一緒。社長、夫婦げんかの真っ最中、大丈夫ですか?
 そして、OL達、男性社員達。……あれほど怒鳴りつけ、泣かせてきたあの連中。裏ボ
スだの地雷だの核弾頭だの散々に陰口叩いてくれた、あの連中。
 みんなが私の名を呼ぶ。みんなが泣いている。おまえら仕事あるのに大丈夫なの?
 そんなに呼ばれたら照れる。そのへんでやめて下さいな。いきなり行方不明になった私
が悪かったから。気恥ずかしい。でも、私の胸に一人一人の声が届く。
 
 島村クン、嬉しそうに言う。
「いや、夜中の間、ずっと探してたんですけど、全然見つからなくて。で、明け方になっ
たとき、なんだか何となくこっちの方向の気がして。いやぁ、よかった。まるで奇跡」
 
(どうか、あなたにも月追いの幸運がありますように)
私の胸に、少年の言葉がよぎった。
 
 私はみんなに駆け寄る。洋子、そして会社のみんな達。無事を安堵する声。囃す声。そ
してみんなの笑顔。……みんなありがとう。みんな、私の大切な人達。
 
「じゃ、主任。送ります。ほら、車もそこに」
島村クンの指さす先、土手の入り口、一台のタクシー。あれは、きのう私の乗ってたタク
シーだ。あの好奇心たっぷりの運転手。
「メーターも回さず人捜しで、こっちは商売あがったりです。まったく骨折り損のくたび
れもうけとはこのことですな。さあ、行きましょうか」運転手、にっこり。
「さあ、主任。乗りましょう。とりあえず家まで送ります」
島村クン、私の手を引く。暖かくて力強い手。そして優しい手。
 
 と、私は。彼のおでこにデコピンをくらわしてやる。不意でのけぞる島村クン。
「馬鹿! 今日も仕事よ。会社にやってちょうだい」
私は元気いっぱい、暖かさで胸いっぱいの大声で言ってやった。
 
 運転手は満面笑みで頷く。
「了解! サラリーマンの戦場、会社へといざ参らん、お嬢さん」
タクシーは朝焼けの街へ走り出した。……今日も私の戦いは続く。
 
 
                    〜終わり〜



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