あたしが、そのホームレス兼、詩人兼、絵描き兼、政界フィクサーに初めて会ったのは
繁華街新宿歌舞伎町のうらぶれた片隅。通称ゴールデン街での事だった。
 
 当時のあたしは何ていうか、簡単に言えばTVなんかによく出てくる最近の女子中高生、
っていう感じ。新宿や渋谷、池袋、原宿、それからちょっと気取って六本木なんかで遊ん
でた。まあ、これを読んでる人の想像通りの中学生だったわけで。
 なんとなーく格好いい先輩にヴァージンあげてみたり、なんとなーくクラブでエスやバ
ツ、紙や赤玉呑んでぶっ飛んでたりしてたの。でもホント言うと草の方が好きなんだけど
ね。なんたって健康的だし。
こんな事を人に言うとね、あたしがお金持ちの家の子でしかも母はPTA会長。でも両親
に構ってもらえなくて捨て鉢になって遊んでるとか、小さい頃家庭が崩壊して飲み屋で働
く中卒の母親に引き取られ飲み屋の客だった胡散臭い新しい義父に性的虐待を受けて非行
に走ったの? とか、聞かれるんだけど全然そんなんじゃないの。
 ていうかアンタバカでしょって感じ。アホなワイドショーのバカで無責任な評論家の言
うこと真に受けすぎ。そんな想像するのは死んじゃって下さい。OK?
 あたしは普通の家に生まれて普通に愛されてきたの。……いや、普通じゃないか。ちょ
っとお父さんあたしの事愛し過ぎちゃってるかも。一人っ子のあたしをお父さん猫可愛が
りだもんね。
 まあ、そんなこんなで普通に生まれ、普通に育ち、なんだか普通にTVに出るような遊
び方を知ってる中学生になりました。だから鞄にはキティーちゃんのキーホルダーとコン
ドーム、ちゃんと入ってるよ。
 
 初春の夜。中学生のあたしは歌舞伎町桜通りにあるクラブで遊んでた。お父さんには夜
の十一時迄に帰れって言われてたけど。その日は、友達の家に泊まるって嘘ついてた。
 近くにいたオトコのコとトイレでHした後、あたしはその子の下手さ加減に愛想尽か
したのかなんだか虚しくなって一人、クラブを後にした。
 歌舞伎町の夜。週末のその日は人通りも激しくサラリーマンやらホステス、若いあんち
ゃん、キャバ嬢、キャッチ、ポン引きがうろうろしてた。……特にホストの兄さん達はウ
ザイ。馴れ馴れしいよ、お前って感じ。ていうかあたし、見た目に中学生でしょ。未成年
のあたしを客引きしてどうすんの? 援交まではしてないし、金がない。だいたい兄さん
達、捕まっちゃうよ。
 ふいにさっきのオトコのコの顔、そしてお父さんの顔が浮かんできてあたしはなんだか
切なくなった。どうしたんだろう。街の中、こんなにも人がいるというのに。
 
 あたしは自分でもよく分からないままにどこ行くともなく歌舞伎町の中を歩いた。どう
も今夜は一人ぼっちが身に染みる。中途半端に人の肌と触れてしまったからか。人混みの
中を一人、歩く。
 
 あたしはしばらく歩いていると歌舞伎町の端まで来てしまった。道路向かいは日清本社
ビル。この道を越えればただのオフィス街。歌舞伎町みたく薄汚い雑居ビルが立ち並ぶこ
ともないきれいな街並み。
 だけどあたしは踵を返す。……再び雑踏の街の中へ。
 
 なんともなく目的もなく歩いていると段々と道は狭くなりただの路地となっていった。
辺りはスナックばかり。ところどころに吐いたスパゲティやら唐揚げやらがある。街灯も
少なく薄暗い。辺り一帯、どこか生活に疲れた雰囲気。
 
 ……そこがゴールデン街だった。
 
 あたしはその侘びしい様子に空々しさを覚えるとゴールデン街から靖国通りに抜ける小
道を通ろうとした。その小道は遊歩道とも言え歌舞伎町内では唯一小さいながらも木々や
緑が見られる場所。
 季節は初春。小道周りは桜の木々が薄暗い街灯の中、星見えぬ夜空の下で咲き誇ってい
た。小道左右天井、桜の小道。そっと風吹く。そっと花散る。
 あたしは見とれた。思わず見回す。仄かな桜。豪勢に咲く桜。俯きかげんな桜。堂々と
咲き乱れる桜。それぞれがおのおのの個性で花開く。
 誰かの話で満開の桜は人を狂わせるとあったけど、あたし、なんだか分かる気がする。
 
 ふと、小道そば。桜の木の下、街灯の下。蹲る人影を見た。苦しそうに喘いでる。あた
しは駆け寄った。……それがあの人との出会い。
 
 蹲る人影。一人のおじいちゃんだった。大鞄小脇に地面に手をつき苦しそう。大きく、
小さく大きく咳をする。あたしは介抱しようと近寄るも、そばで足が止まる。
 
 汚い。おじいちゃん、とても汚い。ぼろぼろで真っ黒に薄汚れた服。油まみれでぺった
りなった薄い白髪。それに、臭い! この匂い、あきこの靴下の臭いだ!
 あの子、家にも帰らず彼しんち。ずっと同じ格好。一回靴下嗅がされたけどそれは臭か
った。おまけに水虫だし。
 たまらずあたしは鼻をひんまげた。このおじいちゃん、どこをどう見てもホームレスじ
ゃん。
 
 一瞬、あたしは見なかったことにしていっちゃおうかと思った。でもおじいちゃんまた
急に咳き込む。苦しそう。胃まで吐き出すような空咳。
 やっぱりあたしは見過ごせなくて、つい声かけた。
 
「おじいちゃん、大丈夫?」
私は鼻をしかめ顔面半分そらしながら。
 おじいちゃんは喘ぎながらも顔を上げ、あたしを見る。その時、あたしは思った。何て
綺麗な目。まるでガラス玉。でも臭い。
 
 おじいちゃんは口元から涎垂らしながらも微笑んだ。
「大丈夫、大丈夫。ありがと、ありがとうね」
全然大丈夫に見えないけれど、おじいちゃんは何度も言った。案外見てくれとは違ってち
ゃんと喋れるようだ。ホームレスなんて頭の神経十本二十本切れちゃってるのが多いのに。
あたしは妙に安心した。
 と、言ってるそばからまた咳き込む。あたしは匂いに我慢して背中さすって、何度も声
かけた。なんだろう、あたしってこんな善人面するタイプじゃ無かったはず。でもなんだ
かあたしはそうせずにはいられなかった。
 満開の桜の木の下、人は狂うってホントなのかもしれない。
 
 あたしは近くのコンビニでお水買ってくるとおじいちゃんに飲ました。おじいちゃんは
大きく飲んで、小さくゆっくりと息吐いた。
「ありがとう、娘さん。だいぶ落ち着いたよ」
 落ち着いたおじいちゃん、あたしはあらためて眺めると不思議に思った。確かに汚い。
臭い。でも、おじいちゃんの顔はなんかとても知的な風貌で賢そう。背筋もピンと伸びて
品がある。見てくれさえ良ければどっかの先生だって言われても信じちゃいそう。この前
の大会社のエロオヤジに比べれば雲泥だ。
 なんだか不思議なホームレス。私はこんな小道で何してたのと聞いてみた。
「年寄りの戯れですよ。こんな繁華街の片隅でこんな綺麗な桜があるなんて酔狂じゃあり
ませんか」
おじいちゃん、にっこり笑う。垢にまみれ目元には目くそがこびりついてる。でもあたし
にはどこか、その笑顔がいつも優しいお父さんと重なった。
 
 ともあれ、あたしはなんだかその答えに溜息をついてしまう。これじゃ大きな子供だ。
 
 まあ、桜も綺麗だけどでもこんな誰もいないところで倒れたら死んじゃいますよ。体も
悪いみたいだし。あたしはそう諭す。
 
「このような美しい桜の木の下で死ねるのなら本望ですよ。ほら、こんな歌もあるじゃな
いですか。『願わくば、花の下にて春しなむ。そのきさらぎの望月の頃』」
優雅な言葉。どの歌手の歌ですかと尋ねると彼は快活に笑った。
「これはいわゆる歌手の歌じゃありません。大昔のポエムです」
あたしは素直に感心した。一度、その詩を口ずさんでみる。
「願わくば……」
呟きながらあたしは小道桜の木々を見回す。花が風に吹かれて舞い散る。言葉が、風に吸
い込まれていく。難しい言葉の詩。だけどあたしの胸に何か甘苦しい切なさがこみ上げた。
 
「この詩、短歌は西行という昔の歌人の歌です。彼は都で北面の武士というそこそこそ
れなりの立場にあった人ですが、彼の生きた頃は戦乱が絶えない乱世の時代でした。彼は
俗世に悲観し妻子も捨てて出家し、短歌という己の美の世界に生きたのです」
おじいちゃんは朴訥と語る。あたしは聞き入った。
 その西行という人はなんでも平清盛とか源頼朝といった人の時代らしい。帝お近くに仕
えながらも親子肉親兄弟が相争う俗世に嘆き、自らを律して仏の道、美の短歌の道を志し
たという。
 ……でも、おじいちゃんの言葉は難しい。今の言葉も半分ぐらいよく分かんないぐらい
だから。
 
 おじいちゃん続ける。
「歌の解釈は人それぞれの心の中にあります。そして、私にはこの歌が、完全なまでの美
の世界への飽くなき欲求、憧れを表しているように感じるのです」
 
 あたしはおじいちゃんの言葉の意味は分からない。でもおじいちゃんの心は分かった気
がする。
 
「西行も美の世界を手に入れるため、様々な物を捨てました。人間、何かを欲しがったら
何かを捨て去る覚悟が必要ですからね」
おじいちゃんはじっと夜空を見上げた。何かを思うように。一息ついて話し出す。
 
「それは彼にとって地位であり、そして何より家族でした。西行は愛する家族への未練断
ち切るために、引き留める我が子、愛する我が子、泣き叫び彼の裾を離さない愛娘を蹴り
飛ばしたのです。」
あたしは息をのんだ。
 
 思わず、爪垢たまり、真っ黒のおじいちゃんの手を掴む。
「そんな悲しいことないよ! おじいちゃん。そんな悲しいことあってたまるもんか。そ
れじゃひどすぎる」
あたしにはその話は残酷すぎた。なぜならあたしも愛されている娘なのだから。目頭に熱
いものが込み上げた。
 
 おじいちゃんはあたしの頭をそっと撫でる。なぜか気にならない。
「すまない。そんなつもりじゃなかったんだが。桜の話をしてたらついつい。
 ……すまないね」
 
 おじいちゃんは深く溜息をついた。あたしはそっと彼を見上げた。おじいちゃんの顔は
悲しそうで、そしてそれ以上に苦しそうだった。
 
 あたしは気付いた。この人は何か大事な物を捨てたんだ。何か大事な物を捨て去って生
きてきたんだ。あたしは、気付いた。
 
「おじいちゃんこそ、西行なんじゃない! おじいちゃんこそいろんな物を捨てて一人で
生きてきたんじゃないの。……一人ぼっちは寂しいよ、おじいちゃん」
あたしはおじいちゃんを見据えた。正直、悲しかった。はたから見れば頭のおかしい光景
かも知れない。今風の中学生とホームレス。
 でもあたしにはそんなことどうでもよかった。ただ、目の前のこの年老いたルンペンが
彼の語る西行と重なるだけ。
 虚空に浮かび百年、千年と磔になろうとも微か一点、光を見据えるぼろぼろの聖者。
 ……あたしは小さい頃、お父さんに聞かされた十字架の上、イエス・キリストの話を思
い出した。
 僅か銀貨三十枚の為、裏切られたキリスト。でも、それは僕らの原罪の為敢えて尊い犠
牲となる定め。お父さんはそういった。
 もちろん、西行とキリストは違う。生き方も死ぬ運命も違う。でもきっと二人は孤独さ
え耐え甘んじて寂しい運命を選んだのかもしれない。あたしは忘れ果てていた何かを思っ
た。
 
 おじいちゃんは優しい目であたしを見つめた。ガラスのように綺麗な瞳。
「君は優しい子だ。久しく君のような子に会っていない。もっとも昔の私では君の優しさ
に気づけなかったろうがね。私は常に人の心奥底を疑っていた。そう、私は悪人だった」
おじいちゃんは胸の奥底吐き出すように話す。
 
 あたしにはその言葉が理解できなかった。あたしはあたしなりに色々見てきた。それな
りに悪人も分かるつもりだ。筋関係、中国人マフィア、ぼったくりバー、人身売買。あた
しの友達が忽然と消えたこともある。元彼でシャブ中になって自動駐車場にてひたすら三
時間自動機械に謝り続けた廃人もいる。
 
 あたしにはおじいちゃんがそんな人間には到底思えない。
 
 おじいちゃんは脇の大鞄を開けると中からスケッチブックを取りだした。おじいちゃん
の荷物としてはすごくきれい。おじいちゃんはあたしにそれを見るよう促す。あたしはペ
ージを開く。
 
 驚愕した。そこには紙一面桜の絵が広がっていた。艶やかな桜。それは紙一面に枝木を
広げ、あたしに訴えかける。
 
 ……私は生きてます。私は小さなか細い芽より育ちます。私は日の光受けあなた達の吐
く息をもらい栄養とし、地面地中の養分を食べます。
 夏の日は強い日光に耐え、秋の日は葉を散らし、冬の日は寒さに震え、それでも生きて
ます。
 そして春。草木萌えいずる春。私は命の限り花開かせ、春を謳歌します。この花は私の
命の結晶。私の喜び。私の存在全て。
 そう、私は生きてます。私は生きているんですよ……
 
「すごい……」
あたしは言葉を失う。上手い、上手い、上手すぎる。いや、上手いという言葉は何かが足
りない、何かが多すぎる。
 
 本来、人の心打つ物は小手先の技術などではないのかも知れない。それはきっとたとえ
誰も理解してくれなくてもそれでも何かを訴え続ける心の叫び。皆が理解してくれなくて
も、誰か一人が感激の涙流してくれるならきっとそれこそが芸術なのだろう。
 でもその時のあたしにここまで難しいことは分かんなかった。思い起こせばそう感じる
という事だ。
 
「おじいちゃん、これすごいよ! すごい! 何がどう凄いのか分かんないけど、凄いっ
てことだけは凄く分かる」
はしゃぐあたし。おじいちゃんは次のページをめくるよう言う。
 
 あたしは興奮醒めやらぬまま。
 内心呟く。
 そうだ、このおじいちゃんは絵描きさんなんだ。だってこんなお馬鹿でチャランポラン
なあたしでも、学校の美術ではいっつも赤点すれすれのあたしでも、何か胸をわしづかみ
にされて心かき乱される絵が描けるんだもの。
 あたしは柄にもなくときめいてページをめくった。
 
 次のページ。
 
 そこには、おじいちゃんの、絶望があった。
 
 あたしは絶句した。そこには紙一面人の死体が広がっていた。艶やかな鮮血。それは
紙一面に広がり、あたしに訴えかける。
 
 ……私は死んでいます。私は小さな胎児より育ちました。私は母の母乳を飲み、あなた
達からそそがれる愛を栄養とし大きくなりました。
 夏の日は海ではしゃぎ、秋の日は恋に胸焦がれ、冬の日は人生の意
味を問い続けました。それでも死んでいます。
 そして今。草木萌えいずる春。私は春の暖かさも知れぬ地中にて、永遠の牢獄に閉ざさ
れる。この叫びは私の最後の火種。私の悲しみ。私の存在全て。
 そう、私は死んでいます。私は死んでいるんですよ……
 
 吐き気がした。胸が苦しくなる。おじいちゃんの、いや、薄汚いホームレスの匂いがあ
たしの胸を焼き付かせてムカムカしてくる。
 スケッチブックを持つ手が震える。あたしはおじいちゃんを振り返れなかった。
 今、あたしの背後。そこには鬼でもいるかのように思えた。あたしは小さく震えた。手
の平に脇に、嫌な汗が出る。生まれて初めての恐怖。
 今までも恐いことは色々あった。筋者に追いかけられた時もそれなりに恐かった。ぼっ
たくりバーで睡眠薬飲まされた時も恐かった。相模原山中で拉致られた時も恐かった。
 でも、今これはまったく異種でそして遙かに恐い。あたしは正直言うと少し漏らした。
 
「それはね、私の息子です」
ホームレスはぼそりと呟く。あたしは鼻を、そしてなにより耳をふさぎたかった。
 
「私は元帝国大学生で卒後当時の内務省に入りました。もう六十年以
上前の話、戦中の頃の事です」
静かな声。あたしはそっと聞き入る。いや、聞き入るしかなかった。
 長い話だったので要約する。
 
 ホームレスは戦中にぼろぼろになっていく国内経済をなんとか支えようとした。が、南
方戦線との輸送ルートは米潜水艦に絶たれ国内の石油、鉄、ゴムなどの物資は底を尽きつ
いに彼の奮闘虚しく終戦を迎える。
 玉音放送の中、彼の胸には寂寥感しか無かったという。
 
 戦後、内務省を退官し何をするでもなく燻っていたホームレス。が、その彼に一人の男
が訪ねてきた。昔からよく知る馴染みの男。
 ホームレスと彼は小さい頃から神童の誉れ高く共に帝大に進むかと期待されていたのだ
がその男は何を思ったか軍人への道を歩んだ。久々の再会。
 旧交を温めていると男が切り出す。
 
 実は満州時代隠匿していた物資が日本国内にある。それで一山稼がないか、と。
 ホームレスは男と手を組んだ。男には物資と旧軍時代の人脈。そしてホームレスには内
務省時代の経綸の才と人脈。鬼に金棒の組み合わせであった。
 戦後の混乱期に二人は勢力を広げると朝鮮戦争時代は特需で一気に表と裏の世界に影響
力を強めることに成功した。政治家をも影で動かす、フィクサーの誕生である。
 
 いや、ここまで言ってるけどあたしにははっきりいって全く内容は分からない。単に言
ってたことを簡単にしただけ。ただあたしに分かったのはこのホームレスが友を裏切り頂
点に上り詰め疑心暗鬼に囚われそして、息子を殺したこと。
 絶対に嘘じゃないと思う。だって今でも憶えている一言。
 
「知っていますか? 死体が出てこなければ法的に殺人は立証できないんですよ」
何気ない一言。あたしは芯から震えた。
 
 ホームレスはそこまで一気に喋ると、一息つく。大きな大きな溜息。優しい声で呟いた。
「けれど、私には何も残らなかったんです」
あたしが振り返るとそこにはあのおじいちゃんがいた。
 
「私は鬼になりました。そう、親子肉親兄弟が相争う俗世の鬼。結果、私の元には使い切
れないほどのお金が、円でドルでポンドでフランで残りました。面倒ですがこれだとどれ
か貨幣が暴落しても全面的損害は防げますし。
 そして旨い物も食べました。いい女も抱きました。世界中のありとあらゆる観光名所、
美景を回りました。
 けれどね、それらは何一つ私の心まで入ってこないんです。若い頃のように何かに感動
し、泣き叫び、心、琴線震わすことが。
 私は、世界中の名画を見ました。モネもピカソもダリもダヴィンチもマティスもルノア
ールも。それこそ時代、作風、節操もなく。
 ……しかし、それらも私はなんら心動かされなかった。
 
 私の心は完全に固い石と化していたんですよ。お金の金色の化石」
おじいちゃんは言葉に詰まった。小さく咳き込む。たまらずあたしは駆け寄り、背中をさ
する。もう、あたしにはさっきまでの恐怖は無かった。
 
 おじいちゃんは本当にいい顔で微笑んだ。
「君は私を怖がらないんだね。ありがとう。あの頃の私の周りはいつも私の目を伺い、誰
も私と目を合わそうもしなかった。そして恐れられ憎まれた。自分を神たる存在とまで自
己暗示していたんだろう」
おじいちゃんは呟いた。
 
「そして皮肉な物である時から私は夢を見るようになったんです。同じ夢を。それはね、
息子の夢。そう、腹心に撲殺させたあの息子の夢。じっとこちらを睨んでいるんですよ。
さぞも無念そうに」
おじいちゃんは悲しく笑う。そしてあたしに突如話を振った。
「下世話な話だけれど、君は今日、セックスしただろう?」
あたしは突然の問いかけに戸惑いつつも頷いた。
「だろうね、君の肌つやみれば分かる」
おじいちゃんは全然いやらしい表情ではない。
 
「私はね、その息子の夢を見るようになって心底恐怖したんだよ。この私がだ。半分狂気
にまで追いやられ、ついには手術して生殖能力のみを不全にしてしまった」
おじいちゃんは淡々と喋る。しかしこれにはあたし、唖然とした。
 
「本当だよ。確かに男性器はあるが途中で子種が通らなくなっている」
あたしは口を馬鹿みたいに開くしかない。そんな事、まともな神経でできることじゃない。
その時のおじいちゃんの追いつめられた心境がほんの少し分かる気がした。
 
「その時はもう子供もつくらん。お前しか私の子供はいないのだ、と息子に詫びたかった
んだよ。今考えると馬鹿らしく愚かしいが」
ここまで言うとおじいちゃん、少し黙る。
 
「君はこんな話を聞いたことがあるかな? 芸術家には生活破綻者が多いと」
おじいちゃん、そんなのあたしに聞いても分かるわけないじゃない。
あたしは首を横に振る。
「例外もあるが、その通りなんだよ。皆、天才と称される人間はどこかおかしい。馬鹿と
天才は紙一重というがその通りだ。凡人には理解できないと言うことでは同じだからね」
あたしはもう少しおじいちゃんに近寄る。やっぱり臭いけどもっと話が聞きたい。
 
「そして彼らは自分の生み出す作品にしか興味が湧かない。彼らにとってそれらは自分の
存在価値であり生きた証であり自分のDNAを分かつ子供なのだから。統計上芸術家とい
うのはどちらかというと性欲が弱く子供も少ない人間が多かったらしい。昇華ってやつだ
ろうね」
おじいちゃんは小さく笑った。
 
「そしてだ。なんと生殖能力を絶った私。なんとこの私に、再び好きな絵を喜ぶ力が戻っ
てきたんだよ。不思議なものだ」
あたしは呆気にとられた。おじいちゃんが言うにはそれ以来息子の夢も見なくなったとい
う。
 
「そうして私はさらに筆を取るようになったんだ。そして絵の世界にのめり込んだ。一心
不乱にだ。もはや金のことなどどうでもいい。私はもう一度世界中を回り有りとあらゆる
物を見た。美しい物、感動できる物。そしてそれらは何も美術品だけじゃない。
 この生身の人間達、そう人間達の立ち居振る舞い。勇気、愛情。何かを捨ててまで人に
尽くす心。いや、ただの木々。飛び交う鳥たち。広がる海。それら世界の全ては美しい。
そう、すべてこの大地のもの、海のもの、空のもの。全てが美しい」
あたしはそう言うおじいちゃんを、何やら荘厳な高き頂きのように感じた。
 
「私は今までの過去の物全てを自ら捨て去った。そして私はただ絵を描くために旅に出て
結果、病を患ったんだよ。もはや息子のお迎えを待つばかりだ。私が手にかけた者達が地
獄で手招きしているだろうね」
そういうおじいちゃん、でも満足げ。なんでこの人は死を前にしてこうも強く優しくあれ
るのだろう。
 あたしは急に元彼のこと思い出す。顔青白く、歯がぼろぼろになって死んでいった元彼
の事を。最後、病院のベッドの上で禁断症状に苦しみ、体中の痛みに暴れ、拘束された元
彼。もうあたしの事も分からなくなってしまっていた。同じ死ぬにしてもなんて差だろう。
 元彼が死んで荼毘に付したとき骨の一本も残らなかった。シャブで溶けちゃった。彼の
生きた証は何一つ残らなかった。短いながらもあたしとの季節を残すものは何一つ。彼は
一体何の為に生きて、死んでいったのだろう。
 
 なんだか胸が熱い。あたしの胸の内、心の奥底に今までのあたし自身の姿がよぎる。
 口うるさいお母さん。あたしはいつも口答えばかりしてた。髪の毛の色にうるさい先生。
小馬鹿にしてきた。周りの話は合うけど、ホントはいてもいなくてもどうでもいい連中達。
そして、お父さん。いつも優しいお父さん。
 いつもお父さんを思うたびに浮かぶあの笑顔。今はその優しさが逆に、あたしのしてき
たことを責める。
 今、もしあたしが死ぬとして。あたしの死んだ後には何が残るんだろう。あたしの生き
た証って何だろう。あたしはおじいちゃんのように強く優しくあれるのだろうか。
 あたしは、あたしは……
 
 
 あたしはおじいちゃんに抱きついていた。奔流の如くわめく。
「おじいちゃん、ごめんなさい! おじいちゃんごめんなさい!
 あたし、あたし、あたし……!」
おじいちゃんの懐の中あたしは泣きわめいた。おじいちゃんは戸惑いながらも抱き留める。
 
「そんなに私の死を悲しんでくれるのかい? このような社会のゴミを」
おじいちゃんはあたしを慰める。いや、それは違う、違う、違う!
「おじいちゃん、それは違うよ。ゴミなのはあたしなの!」
 
「ごめんなさい! ホント言うとあたし、最初、最初、おじいちゃん見かけたときどうし
ょうもないクズだなって思った。汚くて臭くてゴミ箱にポイしちゃいたいくらいって。ど
うせ低学歴の、日雇いアル中だって」
おじいちゃんはあたしをじっと見つめる。柔らかな優しい目。
 風がそよぐ、桜の花びら舞い落ちる。
 
「でも、ホントに汚かったのはそんなあたし! 心も体も汚かったのはそんなあたしなの
よ、おじいちゃん!」
花が風に吹かれて舞い落ちる。言葉が、風に吸い込まれていく。今までの人生の吐露。楽
に流され、生きることを簡単に考えてきたあたしの人生。悦びを知っているけど歓びを知
らないあたしの汚れた人生。一つ一つがあたしの口から、喉から、胸から嗚咽と共に流れ
出す。それら全てはあたしの汚れた姿、心。
 だけどあたしの胸に何か甘苦しい切なさがこみ上げた。
 
 あたしは心をからにしたかった。あたしの胸に様々な記憶がよぎる。
 最後泣きながら死んでいった元彼、さっきのオトコのコ、筋者に隠れて援交して行方不
明になったあきこ、さんざん怒られた先生、いつも昼メロばっか見てるお母さん。そして、
いつも笑っているお父さん。
 ……お父さん、あたし、もっと泣いてもいいですか?
 
 苦しい苦しいって泣きわめいた元彼の分まであたし、泣きます。
 きっとどっかで冷たくなってるあきこの分まであたし、泣きます。
 この涙は彼の分。この涙はあきこの分。
 そして、これはお父さん。
 ……お父さん、ごめんさい。あたし、いけない子でした。
 
 おじいちゃんは優しくあたしを撫でる。その手は真っ黒で爪垢が溜った手。でもあたし
には分かる。この手は西行さんの手。この手はイエス・キリストの手。誰よりも苦労し誰
よりも誰かを傷つけながら、……そして誰よりも傷ついた、聖者の手。
 
 おじいちゃんは言った。
「幸せになりたいかい?」
 あたしは嗚咽漏らしながら。涙、鼻水垂らしながら。はっきりと頷いた。
 
「だったら自分を大事にしなさい。自分は自分自身の物。
 そして何よりも大切なことは……」
花が風に吹かれて舞い乱れる。言葉が、おじいちゃんの言葉が風に吸い込まれていく。
 
 でも、あたしには分かった。あたしにはそのおじいちゃんの言いたいことがよく分かっ
た。きっと、その言葉が何なのか追い求めることが人生なんだ。
 風が吹けばかき消されるようなそんな儚い言葉でも、あたしはそれを追い求め続けなき
ゃいけないんだ。……あたしには分かったよ。おじいちゃん。
 
 桜の咲き誇る、小道。あたしはおじいちゃんの懐で、手の中で泣きました。
 
                     〜終わり〜



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