1・宮路 早樹、17歳
 
 
 繁華街、六本木の夜は賑やかだ。酒の入ったサラリーマン、色気をさりげなくアピール
した装いの娘、買い出し途中の黒服、少し近寄りがたい雰囲気の黒人達。様々な人々が行
き交う。同じ繁華街の新宿、池袋、渋谷よりも様子がよくどことなくきらびやかな印象。
 そんなこの街に星は見えない。見上げれば地上の光が空を覆っている。
 
 六本木のある交差点のそばに、とても大きな建物がある。斬新な幾何学的デザイン。地
下鉄ともリンクした総合商業施設なのだが、その地下は広いクラブになっている。
 金曜日、今夜もクラブは客が盛況で盛り上がっていた。
 
 暗く照明を落としたホール。光が飛び交い、トランス曲が床をゆさぶり体の芯もつらぬ
き鼓膜が破れんばかりに鳴り響く。野蛮なまでに原始的で洗練されたリズム。ホールを埋
め尽くす客達のかけ声。客達は、光に、音に、酒に、踊りに、一体感に、光悦する。
 
 さて、そんなクラブの吹き抜け部分二階にホールを見下ろす形で部屋があった。一面の
壁は曇りガラスとなっており、ホール側から中の様子は窺い知れない。VIPルームである。
 
「いやー、楽しかったよ」
VIPルームのドアを開け青年が入ってきた。ソファで談笑していた仲間達が迎える。人数
は六人ほど。皆、年は十代後半ほどで、服装は様子がいい。ここだけはホールの騒音は適
度の音量となっており、皆がくつろいでいる。
 その中に宮路 早樹もいた。早樹の隣には格別上品で爽やかな男が座っており、早樹は
その男と談笑している。
 
 その男、名前を崎田 和志といい、年齢は早樹よりも二才年上。早樹とは小さい頃から
の知り合いだ。なにしろ、二人は許嫁なのだから。今夜、和志は友達との遊びに早樹も誘
ったのである。
 
「さっちゃん。どう、楽しい?」
和志は笑みをうかべて陽気に問いかける。早樹はその笑顔だけで楽しくなる。昔からだけ
れど、この許嫁の笑顔には誰もが好感を持ってしまう。
「うん、楽しいよ、かずくん。少しうるさいけど。ねえ、そこのピザとってくれる?」
「はいはい、お姫様。なんなりと」
和志はおどけてピザを取り、自分もグラスビールをあおいだ。
 
「じゃ、気付けにテキーラでもいきますか〜。テキーラ下さ〜い」
ホールから戻ってきた青年はVIPルーム専属のボーイに持ってこさせる。周りの者はや
いのやいのと囃したてた。彼は一気にグラスをあおると、顔中渋面して添え物のライムを
かじる。それを見てまた周りの者は囃したてた。
 
 青年は一気に顔を赤くすると早樹達に寄る。
「和志はいいよな〜、彼女がいてさ。俺なんか別れちゃったばかりだよ」
「そうそう、こんなに可愛くてうらやましいね」
周りもあおる。これには和志も早樹も少し戸惑って、
「いや、彼女とかそういうのじゃないよ。小さい頃からの婚約者だ」
「……彼女以上じゃん」
 
 ここにいるのは、それぞれが良家の子弟だ。テキーラを飲んだ青年は売れっ子漫画家の
息子、他にも化粧品会社の社長子息、官僚の子、広域暴力団幹部の子等がいる。また、和
志も大証券会社個人筆頭株主の息子だ。皆が酒を飲みつつ煙草をふかし、楽しくくつろい
でいた。
 
「はあ、可愛いコいないかねぇ?」
強烈な酒で酔っぱらった青年はガラスそばでホールを見下ろす。
「お、あのコ可愛いな。ほら、真ん中の方の青いTシャツのコ」
青年は黒服を呼びつけるとホールに行かせる。黒服は下でその女の子の客となにやら話を
する。女の子は最初戸惑いつつもうなずき、黒服と一緒にVIPルームに上がってきた。
こういう場では、たいていの子が、VIPルームから誘われるとついてくる。
 
 しばらく一同は楽しんだ。早樹は腕時計を見る。今は夜の八時。
「楽しかったわ。門限有るからそろそろ帰るね」
「ああ、もうこんな時間だ。家まで送るよ」
早樹と和志は皆に挨拶すると席を立った。二人は地下の駐車場に行くと和志の車に乗る。
和志が最近買ってもらった真っ黒のS500だ。
 
 帰りの車内。ほろ酔い加減の和志が、CDをかける。まったりとした曲が車内に流れて
いく。時折すれちがう対向車のライトがすぎる。早樹はぼんやりと窓の外を眺めている。
 
 
「さっちゃん、学校楽しい?」
和志はハンドルを握りつつ訊ねる。
「……うーん、まあまあかなぁ」
早樹は応える。外を眺めたままで。
 
「懐かしいな。大学も楽しいけどやはり高校時代の方がよかったよ」
早樹は外を眺めたまま。すれちがう車たちのライトが一瞬ずつ顔を照らし出していく。
 
「どうしたの?ぼっとしちゃって。今日みたいなのあまり好きじゃなかったかな。あいつ
らも遊び盛りだけど気のいい連中だよ。もし何か気を悪くしたのなら謝る」
和志は早樹の方をみやる。
 
「別に怒ってる訳じゃないよ」
和志おどけたように、
「普通その言葉って怒ってる時じゃない?」
 
「そうじゃないの。ただ、なんとなくね。疲れたのかな」
 
 
 
2・仲村 藤隆、17歳
 
 
「早樹、ねえ、それって不良とか何かじゃないのかしら?」
相原 愛は早樹の顔を覗き込む。月曜日の朝、朝のSHRの前に早樹は相原といた。相原
とは席が前後ということもあり、早樹の友達の一人だ。
「はは、別にそうじゃないよ。かずくんや友達の人とかは、同じ年頃の人達よりも遊び方
が上手なだけよ」
 
 早樹は先週の金曜日、クラブに行った時の話をしていた。相原はそう言う話が大好きだ。
 
「ふーん、まあ崎田さんって格好いいもんね。落ち着いてるし何か大人。私もあんな人彼
氏に欲しいなー。それで、『愛、好きだよっ』て。わっ、恥ずかしい!」
相原は一人ではしゃいで夢見心地になっている。
「アイアイは好きな人とかいないの?」
早樹は、夢見る乙女状態の友達に半ば呆れつつ話をふってみる。
「そんなもんいないわよ。だいたいあんたみたく両手に花なんて、贅沢なのよ」
早樹はきょとんとする。
 
「へ? アイアイなに言ってんの。両手に花ってどういうこと?」
相原は好奇心といたずら心満々な顔つきで教室の一点を指さす。そこには二、三人の男子
がたむろっている。その中には小学校からの付き合いの藤隆もいた。
「ほら、仲村君。特別仲いいじゃない」
早樹は頬をふくらませて抗議する。
「馬鹿いってんじゃないわよ。あいつとは昔からの知り合いなだけなんだから。変に勘ぐ
らないで」
「ふーん、どーだか?」
相原、何か言いたそうな顔つき。
 
早樹は憮然とする。
 
 ……誰があんなアホと。昔っから変わりはしない。まったく調子が狂う。悪意って物が
まるでないのも知ってるし、無邪気な奴だけど、なんだか逆に疲れるのよ。
 
 小学校からの付き合いの仲村 藤隆。早樹が年を取ったように彼も勿論年を取った。だ
が、本来、子供達が成長するのと引き替えに失っていく、天真さ、無邪気さは色濃く残っ
ており、高校生としては随分と異色の生徒だ。小さい頃から病気によく掛かり、そんなに
体つきも頑丈でなく、背丈も平均より低い。勉強はまあまあだが、運動はそんなに得意で
はなく、運動方面で群を抜く早樹とは比べようもない。
 
 ……ふん、なんか暗い奴ばっかとつき合って。もっとしっかりしなさいよ。そういつも、
いつもフォローできないわよ。まさか、なんか有ったとき私のことあてにしてないわよね?
 
 藤隆にも何人か友達はいるが、どうもぱっとしないのばかりで、雰囲気は明るくない。
今も二人ぐらいと話をしているが、相手はもやしみたいなのと、根暗で変に性格がねじ曲
がった奴だ。クラスでも浮いている種類の人間。もっとも、藤隆本人はまったく気にして
ないのだが。
 
「なあ、あいつらって暗くねぇ?」
「ああ、ホント。変なのばっか」
そばの男子達三人が、藤隆達を揶揄して小声で笑い合う。彼らはクラスの中でも柄が悪い
連中だ。自分よりも弱かろう者をけなす卑しい顔。早樹は顔をしかめて席を立つ。用事も
ないのに。
 
 
 
3・公園
 
 
 初夏、穏やかな休日の午後。公園に身重の妊婦と連れ添う男がいた。のどかな公園には
二人と何組かの親子連れがいる。公園はそんなに大きいものではなく、小さな砂場、滑り
台、ベンチがあるにすぎない。あとは樹木がよく茂っている、そんな小さなとこだ。そん
な公園の隅のベンチに妊婦と連れの男は腰掛けている。妊婦は、見た目にもお腹が大きく
なっており出産も遠いことではないだろう。
 妊婦の名は仲村 早樹。旧姓は宮路。彼女は二十五歳にして、母になろうとしていた。
そして連れ添うは夫の藤隆。
 
「もうすぐ生まれるわね」
早樹は膨らんだお腹をさすり、遊んでいる子供らを見て目を細める。
藤隆は早樹を、お腹を眺める。そして優しく笑った。
 
 この公園は二人の通った高校の近くにあり、行き帰りの途中にあった。二人は高校時代
の思い出に話を弾ませる。高校入学式、真新しい制服をぶかぶかに着ている藤隆。早樹は
それを見て笑い転げた話。雨の日、ついに傘をちゃんとさすようになった時の話。真夏、
藤隆が池にはまった時の話。これには藤隆、思い出のこととはいえ、冷や冷やした。文化
祭で他のクラスの喫茶店、従業員の女の子に藤隆が引き留められ、客の筈なのにいつの間
にか店員になっていた話。思えば、隠れのファンはけっこういたようだ。本人は鈍いもの
だったが。冬、持久走では誰よりも遅かったが、絶対に足を止めず誰よりも精一杯だった
話。思い出はとりとめもなく話せば尽きることはない。
 
 ふと、早樹は公園を見回す。早樹の目に、公園の中程、一本の木が映った。一瞬、早樹
の表情が止まる。瞳が震え目を伏せ、うつむく。……会話がとまった。
 
「早樹ちゃん、どうかしたの?」
「藤隆君。あの木、覚えてる?」
早樹はそっと指さし、藤隆はその先を見る。
「ああ、あの木。僕が大怪我したときのだね。あの夜、早樹ちゃんがたまたま通らなかっ
たらどうなってたことか」
 
藤隆は朗らかに言う。が、早樹は胸の奥、うずくような痛みを覚えた。
 
 ……たまたま、か。
 
 
 
4・回想、うずき
 
 
「はああ…… 疲れたー」
その日、携帯を忘れたことに気づいた早樹は家から再び学校に戻ると、帰り道を歩いてい
た。すでに時間は夜七時。日は長くなってきているとはいえ、あたりはもう暗い。
 
「忘れ物するなんて私も馬鹿だなぁ」
面倒な手間かけることになってしまって、つい愚痴もでる。
 
 公園のそばを通りかかった。帰り道を急ぐ早樹の耳に何かが聞こえる。こんな時間に誰
かいるのか?早樹、怪訝に思いつつ公園を覗く。
 
 公園の隅、街灯に照らされて五人ほどの姿が見える。なにやら不穏な様相。三人が二人
を囲み、怒鳴り声も聞こえる。早樹、恐いもの見たさの好奇心で物陰から半分顔を出す。
なにやら見覚えのある背格好。早樹、目をこらす。
 
 ……藤隆クン!
 
 そこには藤隆がいた。彼は前面を三人のクラスメイトに囲まれている。後ろには、彼の
友達のもやしっ子が藤隆の背中に隠れている。三人は、あの、クラスの中でも柄が悪い三
人組だ。彼らはいきり立ち、もやしっ子は藤隆の背中で震え、藤隆はもやしっ子をかばう
ように三人と対峙する。
 
「仲村よぅ、変に純をかばいだてしてんじゃねぇって!」
三人が藤隆に詰め寄る。共に背が高く、小さい藤隆をおおわんばかりだ。
「そこの純に、お金借りようとしただけなんだからよ、邪魔すんな」
藤隆、三人を見据える。
「純君にお金借りるって、タカリなだけだろ!そんなことやめろって」
 
 三人はそれにますます激昂する。二人をがなりたて、もやしっ子をひきずり胸ぐらを掴
み上げる。夏服のボタンが弾け、眼鏡が吹っ飛ぶ。藤隆も残り二人に左右を囲まれる。
 あたりは暗く、ひとけもなく、ただ、街灯が照らすのみ。
 
 一人が藤隆を殴った。小柄な藤隆はなすところをえずに、地面に倒れ込む。もう一人が
脇腹を何度も何度も蹴り続ける。もやしっ子の方はマウント状態で嬲られている。藤隆の
うめき声がかすかにもれ聞こえ、苦悶の表情が早樹の瞳に映った。
 
 
 
 早樹は物陰で焦燥とした。
 ……大変なことになってる! ああ、なんとかしなきゃ、なんとか。助けなきゃ、藤隆
クン、助けないと!
 
 早樹は一歩、物陰から踏み出さなければならないと思った。藤隆を助けなくては、と。
背が小さく、体格も人並み以下の彼を。優しくて、昔からケンカなんかしたこともない彼
を。まったく頼りないなと半ば呆れつついつも面倒見てきた彼を。いつも早樹ちゃん、早
樹ちゃんと後を付いてきた彼を。
 
 ……藤隆クンを助けなきゃ!
 
 一歩踏みだそうとしたその時、早樹は見てしまった。目の上を切り、血がとめどなく流
れ、顔面半分赤くした藤隆の顔を。早樹、息を飲む。彼の唇から、咳き込み、声にならな
い声、苦悶の声がもれる。さらに藤隆の顔面に、腹部に蹴りが入る。たまらず藤隆、吐瀉
する。早樹は見てしまった。その有様を。
 
 早樹、出そうとした一歩が出ない。膝が震え、手はかじかみ、額に汗が浮き出る。思わ
ず吐きそうになり、しゃがみこむ。どうしてもその一歩が踏み出せない。
 ……早樹は呆然自失、へたりこんだ。
 
 あたりは暗く、ひとけもなく、ただ、街灯が照らすのみ。
 
 早樹は青ざめている。
 ……なんとかしなきゃ、なんとか。藤隆クン、血まみれになってる。どうにか、なんと
か助けなきゃ。藤隆クン、藤隆クン、私どうすればいいの?……
 
 早樹の眼前で、三人は藤隆と、もやしっ子を囲み暴行を加えた。
 
 なんとかよろよろと立ち上がった藤隆。けれど、こぶしが頬にめり込み、藤隆はなぎ倒
される。倒れた所で腹に蹴りが入る。一発、二発、三発……。髪を掴まれ起き上がらされ
ると、膝蹴りが入る。一人は嘲笑いながら張り手を右に、左に頬を打つ。右のに身を投げ
出されたかと思うと、左のにエルボーを見舞われる。一人に首を極められ、もう一人が腹
を、胸を打ち続ける。もう一度、思い切り髪を引っ張られ、振り回される、なぎ倒される、
唾を吐きかけられる。
 
 物陰で、早樹は声を押し殺して泣いていた。どうしていいか、どうにも分からず泣いて
いた。何をしていいか、何も分からず泣いていた。どうしようもなくて。どうしようもな
くて泣いていた。ただひたすら、泣いていた。
 
 公園に鈍い音が鳴り響き続けた。
 
「オイ、少しは懲りたかよ」
 一人がさすがに息を切らし、地面に倒れ込んだ藤隆ともやしっ子を睨みつける。
二人は夏服がずたずたに破れ、全身が打ち身、擦り傷、痣だらけ。あちこちから血が流れ、
唇は裂け、口の中を切り、まぶたは腫れ上がっている。
 
 もやしっ子は泣きべそをかき、財布を差しだそうとした。
「ったく、初めからそうしてればこんなに手間掛からなくてよかったのによ。こっちも疲
れるんだ」
三人は財布を取ろうと手を伸ばす。が、藤隆。
「純君、渡しちゃダメだ!」
財布をはじく。三人を下から見据える。
 
「エッ!?」
早樹は突然の事に、我が目を疑った。
 
「ナカムラー!お前まだやられたいのかよ!」
上から三人、藤隆を囲む。
「ナカムラちゃん、さっきのでも足りないのかナァ?」
 
 けれど、藤隆。よろめきながらも立ち上がる、目をそらさない。対峙する。
 満身創痍。膝は震え、左手は動かず、呼吸は荒く、鼻血を出し、右目は腫れ上がり、そ
の目にまぶたから血が流れ込み、こぼれ落ちた血は、地面を点々と赤く染める。
 
「藤隆君、いいよ!やめてくれよ、またやられちゃうよ!謝ろ、ね、謝るんだ藤隆君!」
もやしっ子は藤隆のすそを握り、必死に止める。
 
 ……やめて、お願いだからやめて、藤隆クン。半殺しにされちゃう。お願いだから、あ
いつらの言うとおりにしてよ。
 物陰で早樹。顔中、汗と涙と鼻水だらけでしゃくりあげる。
 
 藤隆、
「謝るってなんだよ……」
静かな声。
「謝るってのは悪いことしたからだろ。僕らは何も悪いことなんてしてない。謝らなきゃ
ならないのはこいつらだ」
はっきりと指をさす。
 
 三人は猛烈に激昂する。たたみかけようとする。その時。
 
「殺してくれよ!君ら、僕を殺せよ!」
切り裂くような声。あたりは静まる。藤隆の声が、公園に、夜空に響く。
 藤隆、近寄りがたい烈気を放っている。三人、思わず、上げたこぶしが下がった。
 
「どうせやるなら殺せよ、今すぐに!さあ、やってくれ!」
藤隆は三人を睨みつける。
 
 早樹。そのあまりの突拍子もない言葉に泣く事すらも忘れて立ちつくした。そして三人も。
 
「……どうしたんだよ?殺して下さいってこっちから頼んでるのに?君らに謝るくらいな
ら殺された方がまだましだ。君らに頭は下げない。屈さないよ。間違ったことに屈さない。
不道理に頭を下げたりなんかするもんか。
 
 ……そりゃ、僕は弱虫だ。特技もない。誰かの役にもたてやしない。今まで僕は、いつ
も人に助けてもらって生きてきた。ある人に、いつも。
 その人はなんでもできる。勉強もスポーツも。そして皆に優しいし、誰よりも努力家。
僕なんか足下にも及ばないんだ。僕は無力で、弱くて、お荷物で……」
瞳滲む涙、血と混じる。
 
「いつもその人に助けられっぱなしで。いつも感謝してるけれど、何一つ報いることがで
きなくて。上手く感謝の気持ちも伝えられなくて。僕は無力だ」
血と混じった涙、頬をつたう。
 
「藤隆クン……」
早樹は見つめる。
 
 藤隆、満身創痍。制服はぼろぼろで血が染みていく。膝震え、左手動かず、呼吸荒く、
鼻血出し、右目腫れ上がり、その目にまぶたから血が流れ込み、こぼれ落ちた血は地面を
点々と赤く染める。
 
 
 藤隆は胸の奥底の息、吐き出すようにしぼりだす。
 
「……だけど。だけど、だけど、だけど!
 だからせめて、少しでも僕はその人のようになりたい。だからせめてその人のように、
誠実であろうと思う。それぐらいしか僕にはできないから。それが僕の自尊心。
 たったそれだけしか、それだけしかできないから!だから、人としての道を守ろうと生
きてきた。それぐらいしかできないから。自分にはそれしかないから……
 
 そしてその人が支えてきてくれたからこそ、僕は卑怯者にはなれない。
 その人が微笑んでくれるのが好きだから。だから、その人の顔を恥ずかしくて見られな
いなんてそんな真似はできない。たった、それだけが。それが僕の生きてる支え。
 だからこそ、ここで心折られるわけにいかないんだ!」
 
藤隆叫ぶ。
「だから、殺せ! 信念曲げてまで、後悔してまで、生きたくない。さっさと殺せよ! 
 殺せったら、殺せ! 殺せって言ってんだろ!!」
 
 早樹はただ、泣いた。泣いて、泣いて、泣いた。狂おしいほどに泣いた。悲しくて苦し
くて切なくて泣いた。
 
 ……藤隆クン、ゴメン。ホントにゴメン。許して下さい。堪忍です。私はそんなに強い
人間じゃないよ、なかったよ。本当の事言うと、私、あんたを心のどっかで馬鹿にしてた。
あんたのこと、お荷物だと思ってた。昔から変わらない純なあんたを馬鹿にしてた。
 
 私はいつか言ったみたいになんでもできる。そして、それなりに経験も積んで自分が大
きくなったような気がしてた。外の世界も色々覗いて、一人で知ったかぶって上の目線で
みんなの事を、そしてあんたのことを見ていたの。あんたは私より劣って頼りないから、
なにかあったら助けてやろうってそんな舐めた気持ちだった。
 
 でも、私、私は、動けなかったよ。足がすくんで動けなかったよ。あんたが危ないって
のに動けなかったの。臆しちゃったの。恐かったのよ、私。理不尽な暴力に、私は負けた。
 
 私は自分が可愛かったの。あんたはもやしのために、そして正義の為に意地張った。で
も、そんなあんたが誰よりも優しいって言ってくれた、そんな私は自分可愛さにあんたを
見捨てました。
 
 藤隆クン、ホントにゴメン。私は馬鹿でした。そして卑怯者でした。私は、決してあん
たがいうほどの偉い人間なんかではありません。大切な友達を見捨てる心弱い、汚い人間
です。
 ホントにごめんなさい。堪忍して下さい、どうか許して下さい……
 
 木陰で早樹は見えはせぬであろう藤隆に向かい土下座した。後から後からぼろぼろ涙が
つたう。しゃくりあげるしかなかった。心の中で謝ることしかできなかった。
 
 みながみな、その場にたちすくんでいる。三人の一人は泣いていた。みな、狂おしいほ
どのなにかにうたれていた。
 
 
 
5・再び二十五歳
 
 
 その時、私はただ佇むのみだった。結局、三人はいたたまれなくなり逆に謝って去った。
もやしっ子も逃げるようにいなくなった。私は顔を拭うと、なにくわぬ顔で今偶然通りか
かった風で近づいた。あなたはぼろぼろの格好で、公園のあの木にもたれかかってた。ほ
んとにぼろぼろで血だらけ、痣だらけ。見るも無惨だったね。
 でも、私の顔を見ると朗らかに笑みを浮かべたよね。私はあんなにいい笑顔を知らない。
 あなたは知らない奴に因縁つけられたって言った。こんな事、公になっちゃえばあの三
人は退学になるもんね。よく分かるよ、あなたの優しさ。あの木にもたれかかったままで
あなたはぼろぼろ。私はまた泣いてしまった。
 
 
 いつの間にか親子連れはいなくなっている。初夏の陽光は優しく照らす。
 
「いい天気だね」
私はただ、うなずいた。
 
 初夏の陽光は、体、暖かく、そして思い出は心暖かい。
 私は夫の肩によりかかり目をつむる。少し眠くなってきたようだ。
 
 うたた寝をしていると、急に電子音に起こされた。夫の携帯電話が鳴っている。
 夫は知らない番号に少し怪訝な顔をして電話に出る。が、相手の名前を聞くと、素っ頓
狂な声を出した。
「あれ、純君! 久しぶり〜!どうしたの?」
 
 純君? ああ、彼ね。そう、あのもやしっ子、純君だ。高校卒業以来、七年ぶりのはず。
 
 
 
6・早樹、42歳。公園にて
 
 
「ねえ、ママ。どうしても聞きたいの。夏の話。父さんのことを」
あの公園。ベンチに二人の女性が座っている。一人は四十代。娘らしき人物は十代後半と
いうところか。それは早樹と、一人娘の緑だった。
 早樹は四十二歳、緑は十七歳。早樹は年を取りつつもそれを感じさせない上品さ。娘の
緑は若い頃の早樹に似てまた美人だ。一つ、そのつぶらな目だけは亡き父に似ているが。
 
 緑は早樹に懇願する。早樹は困惑する。できればその真夏にあった事件は話したくなか
ったから。しかし緑もしぶとい。早樹はため息をつく。
「あなたももう高校生だもんね…。話してもいいかしら。でも、妙に頑固なところ、あの
人にそっくりね。ホント、親子だわ」
緑は粘り勝ちしたと、喜ぶ。
 
「本当は教えるつもりもなかったんだけど…。なんだか、ここにいるとねぇ」
緑、きょとんとする。ここが、両親にとって思い出深いところだとは知らない。
「一応言っておくけど、聞いて愉快な話じゃないわよ」
 
 早樹は一呼吸入れると話し出した。
「この公園に一緒にいるとき、その電話はあったの。そしてそれから始まった」
 
 
 
                      君想う十二の月の小話〜七月〜 完
 
 
 
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