1・伊豆沖
 
 
 太陽燦然、群青空広がる。茫洋視界四方の太平洋は今、陽光煌めく八月の海。
 ここは伊豆沖、一艘のクルーザーが浮かぶ。
 
 クルーザー、デッキの上。ビーチチェアにて寝そべる少女。ティーシャツとハーフパン
ツ姿の瑞々しい肢体。
 少女、うつらうつらと夢見心地。うだる暑さに、陽の光が注ぐ。大波小波は、ゆらりゆ
らりと船を揺り動かす。額流れる汗。脇に置かれた文庫本。手元のオレンジジュース。グ
ラスの氷が澄んだ音を立てる。
 
 宮路 早樹、十七歳。早樹は横たわる。陽の光、黄金色に浴びながら。
 
 
「さっちゃん、寝てる?」
若い男の呼声。心地よい暑気に夢見心地の早樹、低血圧の子供のようにむずかる。
 早樹が目を上げるとそこには崎田 和志がいた。二歳年上、子供の頃からの婚約者。剣
道で鍛えられた体。颯爽とした風貌。
 
「はは、気持ちよさそうだったね」
和志は朗らかに笑う。屈託がないその笑顔。早樹も笑顔を返す、額の汗が光る。
 早樹と和志が話していると他の皆も来た。仲村 藤隆、早樹の父、宮路 友重。母、澄
子。和やかな面々。
 
「早樹ちゃん、ご飯できたよー」藤隆。
彼は早樹と小学校時代からの幼馴染み。年は早樹と同じく十七歳。同じ高校でもある。人
間性で早樹が誰よりも信用を置く友達だ。異性間において成り立つならば親友といっても
良い。小柄な小動物系だが、いざという時心強い。早樹はつい一ヶ月前それを知った。
 
 
 
「はい、お昼ご飯ですよ。お父さん、和志君、仲村君の釣ったお魚」
早樹の母、澄子がご飯、尾頭付き御味お付け、切り身、シーフードサラダ等の午前中男性
陣釣果での料理を出す。それを一同味わいながら話が弾む。各々の釣った魚の自慢話に花
が咲く。釣果を最もあげたのは和志、その次は父、冴えなかったのは藤隆であった。
食事中、早樹の父陽平は笑う。この父がここまで楽しそうに笑うのを早樹は滅多に見ない。
早樹も御味お付けをすすりながら、つられて笑った。
 早樹の父、宮路 友重。六十一歳。元公務員の彼は現在、建設省(現国土交通省)外郭
団体の理事を務める。年を取りながらも威風を感じさせる男。
 母、澄子。五十二歳。古風でおしとやかな女性。父は元友重の上司である。
 
 今回の夏休み旅行は崎田家所有のクルーザー、別荘を借りての伊豆遊行である。五人は
免許を持っている友重の運転で楽しんでいた。
 
 本来は早樹、父、母と和志の計四人で来る予定だったのだが、早樹が藤隆も加えて五人
となった。彼らはひととき、採りたての海の幸に舌鼓をうつ。
「和志君、君もよかろう」
父は和志にビールを注ぐ。二人して和やかに笑い合う。
 
 さて、皆での食事が終わると藤隆と和志は再び釣りを始めた。二人は今回が初対面では
ないがここまで一緒にいるのは初めてだ。今まではどこか距離があった。
 
 和志の竿に早速引きが来る。引き、強い。……カンナギだ。大きい。早くもの釣果に和
志は顔を綻ばす。一方の藤隆、竿にはうんともすんとも反応が無い。その間にまた和志、
メジナを上げる。
 
「藤隆君、釣りは焦っちゃいけないよ。焦りは竿を通して魚には分かるから」和志。
藤隆、確かに焦っていた。のんびり引きを待つという、釣りそのものを楽しめるには彼に
経験がない。その焦りが不自然な震えとなり魚に見抜かれているのだろう。
「どれ、少しいいかい?」
和志、藤高の竿に一緒になって手を添える。力みのない手つき。微かな震えは止まる。藤
隆は少し気恥ずかしかったが真剣な和志の横顔。そのまま手を携えた。二人、じっと海面
を睨む。
 
 ……それからしばらく。藤隆、これでも釣れないかと半ば思った矢先、竿がぐいりと引
かれた。強い。竿から魚の生命力、躍動力が痺れる程伝わってくる。二人は歓喜し躍起と
なってリールを巻いては緩め、巻いては緩めて巻く。藤隆、和志、二人一つとなって力を
込める。
 散々に抗った挙げ句、ようやくそれは海面に姿を現す。大きい真鯛だった。二人手を取
り歓声上げる。やや季節外れだが予想外の大物。二人は顔を見合わせ大笑いした。それは
まるで昔からの友達の如く。
 
 
2.夜、別荘
 
 
 夕方、一同はさすがに疲れていた。伊豆、下田にある崎田家の別荘に戻ると、居間でぐ
ったりした。藤隆はカーテンを開ける。太平洋を一望にする景観、夕日に燃える色。
 藤隆バルコニーに出ると嘆息をつく。世界は、広く、丸い。
「凄い景色だね」
傍には和志が来ていた。お互いしばし言葉を忘れて世界を眺める。
 
「いい別荘だな、和志君」
早樹父は見回して言う。高台の総石造りの別荘。落ち着いた年代物調度。照明はアンティ
ークランプのみ。この別荘は戦前、財閥系財界人の建てた物で調度品等は欧州より輸入し
た古品で統一されている。また和志父のレコードコレクションの一部がここに置いてあり
ここだけでも相当の量であった。
 
 食事を終えると居間で、藤隆は早樹父に話しかけられた。藤隆は昔からこの人が苦手な
ので少し詰まりながら答えた。話題は藤隆父の話になる。
 
「はい、父さんは忙しい人でした。家に帰れない日も多かったです」
藤隆答える。早樹父、目を細める。煙草に火を付けると一息ついた。
「君のお父上はそれは立派な方だった。君も聞いているかと思うが、お父上とは立場上あ
の様なことになった。しかし個人的に私はお父上を尊敬していた」
それに藤隆は頷くわけでもなく、ただ聞き入っていた。
 
 今は亡き、藤隆の父は東京地検特捜部の中堅検事であった。藤隆父を一言で評せば懸命
の人。社会正義を律するために人生を走り抜いた。政財官の不正を憎み自分の人生を結果
犠牲にしても働いた。そして父の死後、藤隆母子を影に日向に援助したのは早樹父、友重
である。藤隆を娘と同じ私立学校に通わせたのはこの人物の援助による。
 
「父さんは、それ程に立派だったんでしょうか?」
藤隆、ぽつり呟く。早樹父は頷いた。
 
 その後、藤隆は早樹の部屋で和志、早樹、早樹母とパーティーゲームを楽しんだ。
 
 
 
3.いつかの父と子
 
 
「ねえとうたん」
幼い子、父の手を引く。見上げる視線。見下ろす父、微笑んでいる。幼子の頭を撫でる。
「なんだい? ふじクン」優しい声。
 
 幼子は未だ使い慣れない言葉を懸命に喋ろうとする。
「あのね、あのね、ようちえんできょう、おしゃべりしたの」
 
「それでね、とうたんがなにやってるひとなの、ってはなししたの。それでね、いちろう
くんのとうたんはおまわりさんなんだって。みっちゃんのとうたんはやおやさんで、」
幼児は一つ一つ言葉を懸命に喋る。父を見上げる瞳はつぶら。
 
「それでね、ボクはね、とうたんのおしごとよくわかんなかったの。ねえ、とうたんはど
ういうおしごとなの?」
父はしゃがむとじっと子を見つめる。子の手をしっかり握る。
「ふじクン、父さんはね、世の中の悪い事する人を反省させるお仕事なんだよ」
「じゃ、とうたんはおまわりさんなの?」
父は頭を横に振る。
 
「父さんのお仕事はおまわりさんじゃないんだ。父さんのお仕事はね、世の中で精一杯頑
張ってる人を喰い物にして卑怯な事しているそんな人を反省させるんだよ」
子、よく分からない。首を傾げる。父、そうかふじクンにはまだ難しいだろうな、と笑う。
 
「ふじクン、いいかい? 男の子はね、絶対しちゃいけないことがあるんだ。それはね、
ずるい事、臆病な事、正直じゃないこと、言い訳すること、弱い人や困っている人をいじ
めること。それらは絶対やっちゃいけないんだ。
 男の子はね、勇気があって、誠実で、素直で、優しくて、正しいことをできる子じゃな
きゃいけないんだよ。そしてどんなに強い相手でも悪に立ち向かい、そして弱い人や困っ
ている人を助け、目を背けちゃならないんだ。いいかい? ふじクン」
父は子の目を真っ直ぐに見据えて言い諭す。子はよく分かったような、よく分からなかっ
たような。少しきょとんとするも、
 
「うん、とうたん。じゃ、あのね、とうたんみたいなひとになればいいんだね」
 
 父は笑った。
 
 
 
4.早樹の寝室
 
 
 夜、早樹の部屋。藤隆、早樹母は自室に引き上げて、早樹と和志の二人だけ。
 部屋の明かりはランプのみ。穏やかで落ち着いた仄かな光。二人、昔の恋愛映画を見な
がら歓談している。レコードプレイヤーからはラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。
その、単調でいて甘く切ない旋律。
 
「この映画いいよね」
早樹と和志はテレビに向かって横並び。早樹、瞳潤わせポッキーついばむ。
 和志は小腹がすいた。横の早樹にポッキーをねだる。早樹はハーイ、と和志の口元まで
ポッキー持っていく。和志、そのままパクリと食いつこうとするも早樹は瞬間手を引いた。
和志、折角食べようとしたのに宙を切る、呆気にとられる。早樹は、けらけら小笑い。
 
「やーい、かずくん騙されてやーんの」早樹は得意気。自慢げに囓る。
これには和志、早樹の額を小突き、照れ笑いを浮かべて抗議する。
「ゴメン。じゃ、かずくんこれあげる」
早樹は今自分が囓ったポッキーを和志の口元に運ぶ。和志は早樹が手に持つポッキー、笑
って口にする。一口、二口……。早樹は、そのさまを我が子を眺める母の如くに見守った。
和志の様子に唇を綻ばす。ふと、和志の唇が早樹の人差し指に触れる。お互い、一瞬の戸
惑い。和志、早樹の目を見る。早樹も見返す。二人、じっと固まる。ポッキー、早樹の指
からこぼれ落ちる。
 
 部屋の明かりはランプのみ。穏やかで落ち着いた仄かな光。レコードプレイヤーからは
ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。その、単調でいて甘く切ない旋律。
 二人の視線、蛇のようにくねり、絡み合う。
 
 和志、にじり寄る。…早樹はただ瞳を潤わせ、震わせるのみ。和志、ためらいながらも
導かれるように腕をそっと廻す。
 
「私、初めてなの……」腕の中で早樹はそっと呟く。
「僕もだよ」和志は力強く早樹を抱きしめた。
 
 
(ねえ、さっちゃん。僕のこと好きかい?)
(うん、私、あなたのこと、大好き。……本当よ。もう食べちゃいたいほどに) 
 
 
 早樹と和志、ベッドの上で横たわる。早樹は穏やかな寝息。和志はその様子をじっと眺
める。早樹は時折笑顔になり甘苦しい寝声を漏らす。和志、その様子に苦笑するとそっと
うなじに手をやり愛おしくさすった。
 
 と、その時。
「早樹ちゃん、まだ起きてるー?」
ドアを開く音が響く。和志、慌てて入り口に目をやるとそこには藤隆がいた。部屋の様子
を見、驚愕した藤隆が。
 
 和志は痛恨の念にとらわれた。成り行き上、鍵を閉めていなかった。
 
 
 
5.チョップ
 
 
 翌日、昼間。海水浴客でごった返す砂浜。林立する海の家、どこも満車の駐車場。夏休
みの季節、海水浴場はどこもこうだろう。砂浜の人混みの中、早樹達はいた。
 
 早樹、藤隆、和志、父、母は砂の上ビーチパラソルを立てると思い思いにくつろぎ、泳
いだり、寝そべったり、焼きそばを食べていたりしている。
 早樹は泳ぎ疲れ、海を上がってきた。パラソルの下で座り込むと、オレンジジュースを
ぐいっと飲む。しばらく父と話をしていると、ふと隅の藤隆に目がいった。
 
 藤隆は一人隅っこで体育座りをすると、ただぼんやりと彼方を見ていた。誰かと話をす
るでもなし、みんなの輪に入ってこない。
 
 ……どうしたんだろ?藤隆クン、元気ないな。
 
 早樹は藤隆の隣に腰を下ろす。藤隆はちらり早樹を見るとまた顔を逸らした。早樹、そ
れにほっぺを膨らませると、藤隆の脳天に軽くチョップを入れる。
「おーい、アンポンタン。どうしたの、元気ないよ?」優しい声。
 けれど藤隆、反応無い。
 
「どーしちゃったの?」 
早樹、藤隆の顔を覗き込む。けれど藤隆は目を合わさない。
「……別に」藤隆はどこかいってしまった。
 
「かずくん、藤隆クンどうしちゃったんだろね?何かあった?」
怪訝に思い、和志に話を振るも彼からも反応がない。和志も藤隆の様子に何やら思ったよ
う。早樹は結局よく分からないまま。
 
 
 
6.いつかの情景
 
「おとうさん、なんで、なんで……」
男の子は泣いていた。雨降りしきる中、蝉の鳴き声響く中。葬儀参列者達、男の子を見や
りて目尻押さえる。宅前。並ぶ玄関、悼む花輪。並ぶ人垣、黒の喪服。
 男の子、泣き叫ぶ。雨降り続く。蝉の鳴き声こだまする。
 
(かわいそうね、あんな小さいお子さん残して)
(立派な方だったのにな。残念だ、なぜあんな事に)
(遺書も残ってなかったんでしょ)
(とはいってもやはりあの件だろう。正義感強かったから、あの人)
 
 男の子は雨に打たれるまま。涙、泣き声、狂った奔流となる。大人達はその有様にどう
したものか、近寄れもしない。子の母は呆然と木棺にすがりつくまま。
 
 と、泣き続ける男の子の肩に、手が掛ける。暖かくて大きな手。男の子、見上げるとそ
こには壮年後期程の男がいた。威風のある男。その後ろ、隠れるように女の子。そっと男
の子を見る。
 
 女の子、前に出る。小さい男の子、小さい女の子。向かい合う、見つめ合う。
「なかないで」優しい声。と、そっと男の子の頬、雫を拭った。
 
 見守っていた参列者達、涙を抑えられない。嗚咽の声が響く。男の子、それら嗚咽、皆
の悲しさ、同情、そして何より皆の優しさに号泣する。
 
「ねえ、なかないで。そんなになかないの。なかないで、なかないで、なかないで。そん
なになかれちゃったらわたし、わたし……」女の子、瞳、ぽろぽろ。
 
 女の子、男の子抱きしめる。
「いっしょにないてあげる。ね、いっしょにないてあげる。だから、あんたはひとりぼっ
ちじゃないよ。ひとりぼっちなんかじゃないの」
 
 
 
7.蟹と戯る
 
 
 照らす太陽。遙か見渡す輝く海。ぽつんと一人、砂浜に藤隆。先程の浜辺よりも奥に入
った穴場。海の家など無い為ひとけも無い。
 
 寄せては返す小波。砂浜は白く彼方へと続き、太陽は照らし付ける。辺りは透明な光に
包まれていた。
 
 藤隆は波打ち際に、しゃがみこむ。 打ち付ける波、足下濡らす。揺りかごの様に代わ
る代わる引いては押し寄せ、引いては押し寄せて。藤隆はそんな波をじっと見つめる。
 
 照らす太陽。遙か見渡す輝く海。ぽつんと一人、砂浜に藤隆。透明な光に満ち溢れる。
 
 
 蟹が一匹、いた。さざ波に打たれながらも横歩き。藤隆の目の前を横切る。……そっと
指を差し出す。何故か蟹は逃げない。藤隆、愛おしむ様にさする。
「君も一人ぼっちなのかい?」
呟く。蟹は何も答えない。
 
 行き場を無くした子犬が一匹、泣き濡れる。
 
 
 
8.二人独白
 
 
 藤隆、一人佇む。波は行き交いどれほどの間だったろう。ふと横を見ればそこに和志が
いた。和志、遠くを見据える。互いに無言。
「……好きなのかい?」和志。藤隆、頷く。
 
 和志、もう戻ろうと勧める。が、藤隆、首を横に振る。
「僕は独りぼっちなんです」砂をいじる。
「そんな事ないさ」
 
「もう放っておいて下さい」
和志、それにめげず強く勧める。言葉を選びつつも元気づけ、気を晴らそうと。
 さっちゃんも待ってるよ、と。みんな心配するじゃないか、と。和志、穏やかな笑顔。
けれど藤隆の顔つきは晴れない。和志の顔も見ずに遠く海を見やるまま。
 
「そんな寂しいこと言うなよ。あんなに昨日は楽しそうだったじゃないか」
「僕は何も分かっていなかったんです。別に和志さんにどうこうって事じゃないですけど。
でも結局、僕はみんなから一歩距離を置かれていたんですね」
藤隆は独り言のように続ける。和志は黙っている。
 
「早樹ちゃんや、早樹ちゃんのお父さんからはそれはよくしてもらってきました。僕は早
樹ちゃんが誰よりも一番の友達だと思っていたんです。でも、それは同情に過ぎなかった」
それに和志はきっぱりと反論する。
「それは絶対に違うよ。さっちゃんは確かに僕の事が好きでいてくれてる。それは僕も一
緒だけれど。……でもさっちゃんは君のことも大好きだよ。まるで弟のように親愛の情を
寄せている。口にはださないけれど、僕には分かる」
けれど藤隆、頭を横に振る。いや、そうではないんだ、と。例えそうでも結局はただの友
達。どれほど分かり合ったつもりでも本当のところ分かり合えてはいなかった、と。
「結局、早樹ちゃんもみんなも僕のことなんかどうでもい……」
 
 
「馬鹿野郎!!」
瞬間、和志、拳を上げる。躊躇無い一撃、頬をなぎ払うと藤隆は砂地に倒れ落ちる。藤隆
呆然と見上げた。波が足下に寄せ付ける。
 
「男が、男が泣き言言うな!自分の弱さなんか自慢すんじゃない!」和志、顔面真っ赤。
 
「藤隆君、いいか?男は強くあらねばならない。どんなに辛くても。口に出すな、顔に出
すな、口実にするな」腹の底からの絞り出すような声。
 
 藤隆、むきになる。砂をぐっと掴む。
「だけど、和志さんに僕の何が分かるんですか?和志さんは男らしくて優しくて、お金に
も苦労したこと無い。それに…」藤隆、言葉が続かない。喉が詰まる。言葉にならない感
情がもどかしく、ただ下をうつむく。父が死んでよりの日々が激しく胸を行き過ぎる。
 藤隆、砂浜に拳を打ち付ける。何度も何度も打ち付けた。
 見下ろす和志。砂浜の上、小さくなった藤隆。声にならない嗚咽が漏れる。和志は腰を
下ろすとひしと抱きしめた。力強く、暖かく。藤隆、腕の中で小さく震えしゃくり泣く。
「どうか、自分が独りぼっちだなんて言わないでくれ。それだけは言わないでくれよ」
和志、頭をそっと撫でる。
 
「僕には何もないんです。僕は人に物恵まれて生きてきた。
 ……僕は生きていくのが下手くそなんでしょうね。不器用だし、要領も悪いし、いつも
みんなに迷惑かけて助けられて生きてきたんです」
和志の腕の中、小さな体。それが小さく震える。
 
「お金の有る無しがなんだってんだ。人より出世するのが、偉くなるのがそんなに凄いこ
となのか? 不器用なのがそんなに悪いのか、馬鹿正直なのは蔑まれることなのか!?」
和志はまくしたてると、急に柔らかな声でつぶやく。
「……不器用でもいいんだよ。口が下手でもいいんだよ。それでも君は、それでも君は。
 誰よりも誠実で、誰よりも真摯だから。……僕は君のこと好きだよ」
 
 
 照らす太陽。遙か見渡す輝く海。砂浜にぽつんと二人。透明な光に満ち溢れる。
 
 
 
                 君想う十二の月の小話〜八月 SYDE-B〜
 
 
 
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